喜びの伝達者

 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。(マタイによる福音書25章13節)
                  
 イエス様の「十人のおとめ」のたとえ話では、5人の賢いおとめは「それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた」と語られています。その壺に入れている油というのが、信仰であり、聖書の御言葉そのものであると言えます。それは他のともし火だけを持っていたおとめたちから見れば、余計なお荷物であったと言えます。この十人のおとめたちは、結婚式のために花婿が花嫁の家に夜訪れる時、花婿を花嫁の所までエスコートする役目を担っていました。その花婿がやって来るまでの間、ともし火が途切れないよう、ともし火皿に油が入っていればそれだけで十分だと他のおとめたちは考えていたのです。

 そのおとめたちは、自分が知っている、分かっている目に見える世界だけを理解し、その目に見える範囲の中で余計なものは持たず、スマートに効率的に生きることを最善の生き方としている人たち、社会的地位とか財産とかがあれば人生は十分だと考える人たちの代表だと言えます。そういう人たちから見れば、何で日曜日ごとにいちいち教会の礼拝に出かけ、聖書の話を聞かなければならないのか、そんなことよりももっと有効な時間の使い方がある、と信仰を持つ人たちを「余計な荷物を持つ」非効率的生き方をしていると思うのは当然なのです。

 しかし、その人たちが思いがけない、自分たちの知っている目に見える範囲からは知ることも見ることも出来ない「思いがけない時」に直面した場合、それが急な病気であれ死という究極の出来事であれ、もはや自分たちの持っているともし火だけでは乗り切れない、暗闇の中にほうりこまれてしまうことも事実なのです。

 私たちキリスト者も、死という現実を目の前にして、決して恐れ慄かないという強い存在ではありません。ただ、キリスト者は自分の目に見える範囲のことだけがすべてではないことを知っています。言い換えれば、自分が知っていることよりも知らないことの方が多くあることを知っているということです。上記の聖書の言葉を引用すれば「その日、その時を知らない」ことを良く知っているという点で、信仰を持たない他の人たちとは全く違う生き方をしているのだということです。だから、私たちは他の人の持たない「余計な荷物」信仰という荷物を壺に入れた油のように持つのです。

 いま、私たちの世界はいつどうなっていくのかが分からない、先行き不安な暗闇の中で、多くの人が恐れ苦しむ状況にありますが、私たちキリスト者は自分の知らない分からない全てのことを、すでに十字架の死を死なれ、また復活の命によみがえられたイエス様がすべてご存知であることを信じる、その信仰によって、どんな暗闇の中でも福音のともし火を掲げていくことが出来るのです。そして、いつも聖書の言葉から新たな信仰の油を注がれ、福音のともし火を絶やすことなく、そのともし火を永遠の命の希望の光としてこの世界に照らし、一人でも多くの人の心に主の救いのメッセージを送り届ける喜びの伝達者として生きるのです。
(2021年5月30日週報より)