数えよ主の恵み

 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は幾つあったか。・・・七つのパンを四千人に咲いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。(マルコによる福音書8章19~20節)
                  
 讃美歌の中に「数えてみよ主の恵み」という歌詞があります。振り返るならば、私たちが人生の中で一体どれほどの恵みが今まで与えられてきたことでしょうか?数え上げたら切りがないほど恵みを与えられているのではないでしょうか?そしてそれは、決して自分で頑張って努力して得た結果なのではなく、色々な出会いや偶然の出来事の積み重ねによって今まで私たちを支え励まし導いてくださった神様の配慮なのではないでしょうか。

 ある時、このような経験をしました。教会には定期的に薬物依存症の人たちの回復を手助けするダルクのグループから会報が送られてくるのですが、その会報を受け取るたび、このダルクの人たちがいかに多くの人たちの支えにより助けられ、また助け合っているのか、いつも興味深く読んでいました。そのダルクの会報がまた教会に届き、私がその記事に目を通した日、たまたまテレビのニュースでも富山県のダルクのグループの活動についての報道がされていたのです。そういうニュースを見た数日後に、休暇をもらい岐阜に出かけ、知り合いの牧師のいる教会の礼拝に出席したのですが、その礼拝に岐阜のダルクの人たちが出席していて、礼拝後、その人たちの活動に関するお話を聞くことが出来たのです。

 このように、ダルクについて色々な情報や知識が、次々と私の耳に飛び込んでくるような偶然が続いた直後のことでした。今度は少年鑑別所からの依頼があって、一人の青年の個人面談をすることになりました。会ってみると、その青年は覚せい剤を使用したことで鑑別所に入ることになったということだったのです。そこで私はにわか知識ながらも、私が聞き覚えたダルクの活動について彼に語り、覚せい剤は一人ではやめられないから、是非、ダルクの人たちに助けを求め自分の人生を立て直しいくようにお勧めしたのです。

 このようなアドバイスが出来たのも、その直前にダルクに関して色々な情報や知識を得る機会が重なっていたからなのです。決して私自らが進んで勉強したり研究したりしたわけではなく、たまたまダルクに関する情報が幾つも幾つも私の目や耳に向こうから飛び込んできただけなのです。でもそれは、この一人の青年のために神様が前もって私にダルクの活動についての知識を与え、それを伝えさせてくださった、まさしく数え切れない「主の恵み」の一部であったのだと感謝せずにはおられませんでした。

 私たちはこのようなイエス様からの恵みのパンを手渡され、それを幾つも幾つも信仰の籠に積み重ね、この世界に送り出されている一人一々なのではないでしょうか。そして、自分が与えられた恵みのパンを、さらに一人でも多くの人に手渡していく、その喜びに満ちた使命を果たしていく、そのような最良の人生を歩む者として生きているのではないでしょうか?
(2018年10月17日 祈祷会メッセージより)