キリストの香りを身に浸み込ませ

 神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。(コリントの信徒への手紙二 2章14節)
                  
 まだ、家々のトイレが水洗化される前、毎日のように街中をバキュームカーが走っていました。私は子どもの時、そのバキュームカーの漂わせる糞尿の臭いが嫌で、そのバキュームカーの停まっているそばを通る時は息を止め、小走りに駆け抜けていたことを思い出します。その頃のことを連れ合いの圭子牧師に話ししたところ、彼女がこう言ったのです。「そういう子がいたわね。人が一生懸命に仕事をしているのに、その臭いをバカにして差別するようなしょうもない子が。あなたもその一人だったのね」と。

 思わぬところで叱られてしまったのですが、考えてみれば確かに、子どもとはいえ罪なことをしていたのだと反省せざるを得ませんでした。あのバキュームカーの仕事をしていた人たちは、人の糞尿処理の仕事を毎日し続けて、その臭いを体に浸み込ませながら働いていたのです。お風呂に入ってもその臭いはなかなか取れず、それ故にまた人から避けられ差別を受けることも多くあったのではないでしょうか。そういう臭いを身に浸み込ませる人が、私たちの日常生活の中で一番大切な仕事をしていたのだということを、今さらながら思わされます。

 聖書が語る「キリストの香り」というのも、バキュームカーの仕事をする人が、その臭いを体に浸み込ませ、行く先々で漂わせる、そのようなものではないでしょうか?イエス様も決して人に心地の良い花の香り、香水の香りを漂わせる方ではなく、むしろ人の厭う罪と死の香りをその身に浸み込ませるように生きた方であります。当時、社会から差別され排除されていた罪人と呼ばれる人、重い病故に神の呪いを受けていると忌み嫌われる人、悪霊憑きと人々に恐れられ遠ざけられる人、そういう人の苦しみ悩みに向き合い、共に苦しみ悩みを負ってその人たちの救いのために働かれた、それがイエス様の生き方でした。またそのために、自身を正しいとする律法主義者や権力者の目には、イエス様は「罪人の頭」として断罪すべき人物に映ったのです。

 そのようなこの世では恐れ嫌われる、罪と死の香りを身に浸み込まされたイエス様だったからこそ、その限りない愛によって、すべての人の罪と罪によって滅ぶべき運命をご自身の十字架によってすべて引き受けられ、贖いの御業を果たすことが出来たのです。そして、そのイエス様の限りない愛によって放たれる「キリストの香り」が、神様の最も喜ばれる「宥めの香り」となり、この世界の人間に対する神様の完全な赦しと和解とを成就したのです。

 今、コロナウイルスの患者を看る医療従事者やその家族に対して、まるでウイルスそのものに対するかのような嫌悪の目を向け差別する誹謗中傷が横行する現実があります。かつてバキュームカーの仕事をする人に、浅はかな差別をしていた子どものように、人のために自らが感染するリスクを負って最も大事な仕事をする人たちを、考えもなしに差別するそのような人こそが破壊的な罪と死の香りを周囲にまき散らし、人間不信をこの世界に広めて行く感染源なのです。しかし、そのような人たちをも含め、イエス様の愛は最終的にはすべての人を「勝利の行進」連ならせるため、教会をこの世に建て、教会を通して「キリストを知る知識の香り」をこの世界に拡散してくださるのです。
(2020年7月19日週報より)