小犬の祈り

 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」(マタイによる福音書15章27節)
              
 上記の聖書の言葉は、イエス様に娘から悪霊を追い出して欲しいと頼みに来たカナンの女性に対し、イエス様が「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と民族や宗教の違いを理由に断り、それでもなおあきらめない女性に「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」ときつい言葉を投げつけた、その言葉に反応して女性が発したものでした。

 普段、神様を信じていない人でも、いざ困った状態に追い込まれると「神様、仏様、キリスト様」と神道も仏教もキリスト教も一緒くたにしてお祈りするということがあります。そういう宛先がバラバラなお祈りでも、もしその願いが叶ったとしたら、果たしてその人は、どの神様仏様に感謝すればよいのでしょうか?

 本当の祈りの姿勢は「この方だけは」「この神様ならば」という宛先を一本に絞ることから生まれて来るものなのであります。カナンの女性は「イエス様ならば」という確信をもって、やって来た人であったのでしょう。しかし、民族も宗教も違うこの女性に対して、イエス様は御自分をイスラエルの「失われた羊」のもとに遣わされた者という風に定義し、あなた方異邦人には手を出す立場にはない、と断ったのです。一見、冷淡に思えるイエス様の態度ですが、それはイスラエルの救いこそ急務であるというイエス様の同胞への責任感から出た言葉でありました。しかし、この女性はイエス様の足元にひれ伏し、なおも娘の救いを願ったので「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」とイエス様厳しくお答えになりました。これも実に侮蔑的な表現で女性を罵った言葉のように聞こえますが、おそらく、女性が目の前でひれ伏し自分を見上げるその姿に、飼い主からの指示をじっと待って床に伏す小犬を連想して思わず口から出たものではなかったかと思われます。

 そのイエス様の言葉を受け取って「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と言い放ったカナンの女性の言葉は、まさしく神様のユーモアとでも言うべき、イエス様にとっても驚きに満ちた、また喜びをもって聞くことの出来る言葉であったのです。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」そうイエス様が答えられ、そのとき女性の娘はいやされたということです。

 私たちは「自分のような者が」という、自分自身への自己評価の低さから、「どうせ願いはかなわない」というあきらめを先立たせてしまうことが多いでしょう。しかし、祈りとは自分が何者であれ、イエス様はその自分を決して見捨てられたりはしない、その信仰をその口で言い表すことを私たち一人々に求めておられるのであります。むしろ、自分の小ささ弱さゆえに悩み苦しむ、その私たちがただ「イエス様だけは」「イエス様ならば」という信頼によって祈り願う時、イエス様はその信頼にかならず答えてくださるのです。

 「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」といういわば自虐的言葉でも、それをイエス様は驚きと喜びをもって受け入れ答えてくださる。その度量の深さ大きさに信頼しつつ、どんな小さく弱い自分であっても、あきらめずに祈り続けましょう。
(2020年7月5日週報より)