祈りの道

 あなたがたの中に、魚を欲しがる子どもに、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。(ルカによる福音書11章11~13節)
                
 祈りについてイエス様が教えられている言葉に「だれでも求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」という1節があります。私たちは神様に積極的に求めることを許されている、探すことを促されている、また門を叩いて神様に願うことを勧められている、ということなのです。しかし、私たちはしばしば、消極的にしか祈れない時があります。現実の厳しさの前で、自分の願いや求めなど、どうせ叶えられっこない、という風に思うことの方が多いからです。このように、祈ることに疲れ果ててしまうのは、自分の願っていることより、願わない、求めもしないことの方が現実に多く起きる、そういう失望や落胆が積み重なって、私たちの心を暗くしているからに違いありません。

 しかし祈りとは、私たちの目に映る現実がどのようなものであれ、私たちを愛し最も良いものを与えようとされる「天の父」なる神様への信頼によってこそ続けられるものなのではないでしょうか?また、祈りとは、自分の願いや思いを一方的にぶつける独り言なのではなく、それを聞いてくださる相手の気持ちにも思いを寄せ、その相手が自分どう応えてくれるのかを期待を抱きつつ待つ、そういう未来への希望をもって祈られるべきものであります。

 子どもたちが親に求める時、親はその子どもにとって最も良いと思うものを選択し与えるでしょう。蛇やさそりといった危険なものは、もし子どもが求めたとしても親ならば決して与えたりはしません。逆に、子どもの健康に良いと思う食べ物ならば、たとえ子どもがいやがってもそれを何とか食べさせようと工夫するのが親というものです。私たちの求めや訴えを聞かれる神様は、その親のように私たちの求めや願いに対し、最も良いものを答えとして用意し与えて下さるということなのです。

 私たちが最初に祈る願いや求めは、それがとっかかりとなって、最終的には聖霊という最上のものが与えられる、そのための出発点に過ぎません。私たちの最初の願いや求めが叶えられるか否かはもはや問題ではなくなるほどに、聖霊によって、私たちは神様が本当に最も良い答えを用意し待っておられる方であることを知ることが出来るのです。

 学生時代、友人に誘われてリレーの大会に出たことがありました。しかし、日ごろから運動不足の私は、軽い気持ちで誘いに乗ったことをすぐに後悔しなければならないほど、練習がきつかったのです。それでも、一度OKした手前、やめることも出来ず、本番当日、必死になってコースを走り続けました。もうヘトヘトで足も前に出なくなった時に、私を誘った友人が、彼はもうすでに自分の番を走り終えていたのですが、私のそばに駆け寄って伴走してくれたのです。お陰で、何とか次の走者にたすきをつなげることが出来、その時はフルマラソンを走り終えたような喜びに満たされていました。祈りの道も、私たちを予想外の大きな喜びへ至らせる、神様の愛の招きの道なのです。
(2020年6月28日週報より)