最大の献げもの

「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(マルコによる福音書12章43~44節]
                
 今、私たちが生きている世界の現実は、思い悩まないことの方が不思議であり、非常識とも言える状況が続いています。マスクも消毒薬も、日常の生活用品も手に入らないという不安や怖れによって、誰もが明日を思い悩まざるを得ない状況にあるというのが事実ではないでしょうか?福音書の記事に、エルサレム神殿の賽銭箱に多くの人が大金を投げ入れていた中、一人の貧しいやもめがレプトン銅貨2枚をそこに入れたというお話が出てきます。レプトン銅貨とは、当時、イスラエルで流通していた貨幣の中で最も価値の少ないお金でした。お金に余裕のある人たちが競うように賽銭箱に投げ入れる多額の銀貨に較べれば、このやもめのたった2枚のレプトン銅貨は神様に献げる価値もない、無に等しいものでしかなかったでしょう。

 私はこのお話を今まで何度も読んでまいりましたが、そのたびにこのやもめが人々の立ち去った後、こっそりと人目を避けるようにレプトン銅貨を投げ入れている、そのような姿を想像しました。しかし、今あらためて読み返して感じたのは、このやもめは多額の銀貨を賽銭箱に放り込んでいるその人々の中に混じって、レプトン銅貨2枚を堂々と献げたのではなかったかということでした。

 私たちはこの2ヶ月余り、コロナウイルス感染拡大防止のため、教会での礼拝は牧師のみで守るという形をとらざるを得なくされました。礼拝のメッセージは通常通りに講壇に立って行いましたが、正直、ほとんど人がいない礼拝堂の中で牧師だけが聖書を読みメッセージを語るという事は何とも虚しい無駄なことのように感じてしまいました。しかし、あのやもめの献金も、人から見ればまったく価値の無い、無駄なものにしか見えないもであったでしょう。しかし、そのやもめのレプトン銅貨を献げる姿を見て、イエス様はこうおっしゃられたのでした。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた」と。

 この世の価値観からすれば、やもめの貧しいレプトン銅貨など、見るべき価値もないはした金であったことは事実です。しかし、イエス様の目にはこのやもめの信仰の姿「すべてを神様に委ねきり、明日を思い悩まない」こそ、どんな多額な献金にも勝る献げものとして映ったのでした。今日という日をかけがえのない1日として生き抜き、今持っているすべてのものを神様に感謝しつつお返し出来る。その喜びの現れが、レプトン銅貨2枚の献金であり、神様が喜ばれる最大の献げものである。そうイエス様は見られたのであります。

 今、私たちが経験している困難な状況の中で行われる非常に限定された形の礼拝も、人から見れば余り価値のある見栄えの良いものとは見えない、無駄なことをしているかのように思えるものでしょう。しかし、私たちはこの限定された小さな貧しい形の礼拝も、イエス様の目には「だれよりもたくさん」献げているものとして見られている。そのことを何よりもの喜びとして、今私たちが置かれている状況も、「明日を思い悩まず、今日1日を喜びをもって生き切る」その信仰の現される絶好の機会としていきましょう。
(2020年6月14日週報より)