心貧しくされる時

 心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。(マタイによる福音書5章3~4節)
                
 今年、コロナウィルスの感染拡大防止のため、3月には全国で一斉休校が実施されました。特に、今年卒業を迎えた学生さんたちは、1ヵ月早く学校生活を切り上げざるを得なかったのです。そのような中、今年高校を卒業された学生さんが、新聞の投稿欄に次のような内容の文章を寄せていました。

 「私たちの世代は1ヵ月も早く学校生活を終了しなければならなかった。明日も普通にあると思っていた学校生活が突然なくなってしまい、友人との大切な最後の1ヵ月も失ってしまった。しかし、だからこそコロナによって大切な日々を失った世代として、これからの一日一々を決して無駄に過ごしてはいけない、人生でたった一度だけしかない一日として生きて行こうと思う。」

 この方のように、一生一度の大切な時を突然奪われてしまった事について、ただ失望失意のまま終わらせるのではなく、これから生きる未来に対する貴重な教訓として心に刻み付けた人も決して少なくはないでしょう。私たち教会の人間もまた、毎週当たり前のように行ってきた礼拝を、今回のウィルス騒動によって、教会に共に集って行うことが出来ないという状況に置かれました。イースターもペンテコステも牧師だけで礼拝をしなければならなくなったわけです。しかし、この状況を単にあってはならない災いの出来事として嘆くのではなく、むしろこの辛く厳しい経験を通して、今まで普通に考えてきた礼拝の時と場が、どれほど私たち一人一々を支え励ましてくれる大切な時と場であったかを、深く心に刻み付ける機会としてとらえていくべきでしょう。

 そしてイエス様が語られた「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」というメッセージを、今の私たち自身に語られた慰め励ましのメッセージとして心から感謝し受けとめて行きたいと思います。

 私たちはこの世界に生きる間、心の貧しさを味わう者、悲しみを味わう者として、この世の現実の中では決して豊かに安定した生活を送ることも穏やかな幸福に浸って生きることも出来ない一人一々であることでしょう。しかし、だからこそ、この世の豊かさを求め、自分の利益だけに頼る幸福よりも、主イエスと共にある貧しさを最も幸いな道として歩んで行ける、その他の何ものにも左右されない信仰に生きて行くことも出来るのです。

 教会で共に集まり礼拝を守ることの出来ない状況に置かれて、かえって、牧師である私自身、毎週毎週、聖書のメッセージを取り次ぐことの出来た日々が何と恵まれた喜びあふれる時であったのかをしみじみと感じさせられたのです。このような、心貧しくされるような時こそ、私たちは御言葉に聞き、御言葉を宣べ伝える喜びを実感できる、何よりも「幸い」な時として生きて行けるのではないでしょうか?

 そのことを覚えつつ、主がこの苦難の時を、新しい道へと私たちを導くスタートラインとして下さることを信じ、さらに御言葉に聞き従い、福音をこの世界に届ける者として前進し続けて行きましょう。
(2020年6月7日週報より)