聖霊の風に吹かれて

 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。(ヨハネによる福音書3章8節)
                
 本日、聖霊降臨日(ペンテコステ)を迎えました。イエス様が復活された後、40日間弟子たちに神の国について教えられて、その後天へ昇られました。その10日後に弟子たちの上に聖霊が降り、彼らは力を受けさまざまな国の言葉で福音を宣べ伝え始めたのです。この聖霊は「風」にたとえられることがあります。ギリシア語聖書では「風」と「霊」とは同じプニューマという言葉で記されています。イエス様はその風のように、聖霊によって生まれた者は「どこから来て、どこへ行く」のかは誰にも分からない存在なのだと定義しています。それは何ものにも捕捉できない、自由な意志をもって生きる者だと言うことではないでしょうか?

 私たち信仰者は、その自由な聖霊の働きによって生かされているのです。しかし、また聖霊は「思いのままに吹く」風のように、その音は聞こえても、それがどこからどこへ向かうかは私たち信仰者自身にも分からないのだと言えます。窓辺に吊るされた風鈴は、窓から風が吹き込むことによって涼やかな音色を奏でますが、私たちもこの風鈴のように聖霊の吹き込まれる器として、神様の音色をこの世界に現していく存在なのであります。ただ、私たち自身は決して神様のような完全で過ちのない存在となるわけではありません。神様が時に適って私たちを用いられることによって、私たち一人一々は完全に神様のみこころを現す人間として、その言葉と行いに責任を持つ者とされていくのです。

 先週の5月25日をもって、政府は全国都道府県の緊急事態宣言を解除し、およそ50日間にわたった外出自粛や休業要請の縛りが徐々に解かれつつあります。しかし、依然としてコロナウィルスの第二波、第三波に備え慎重な行動をとることが必要とされ、決して完全にもとの通りの生活が帰って来るわけではないのです。しかし、このような不自由な生活が続いた後、その反動で今までやりたくても出来なかったことをし始めるのも人間であるという事実は変わりません。ただ、この不自由な生活の中でこそ、私たちは「勝手きままな自由」を求めるのではなく、神様の求められる「真の自由」に生きることを学ばされているのだと言えるのではないでしょうか?

 「真の自由」とは、私たち自身が自分の意志で何でも出来るということではなく、むしろ自分の自由を神様のみこころによって制限することも出来る、そのような自由のことです。この数か月間、私たちは教会の礼拝に自由に集うことも出来ず、主日に自宅で祈りと讃美の時を守るという非常に制限された状況に置かれてきました。牧師も教会員の姿がない礼拝堂で、讃美歌を歌い聖書のメッセージを語るという、今まで経験しなかった礼拝の守り方に戸惑いを覚えざる得ない孤独な時を過ごさざるを得ませんでした。しかし、このような不自由な時も、軒先に下げられた風鈴が、風の吹かない時には鳴ることも出来ないように、私たちが聖霊の自由な働きによってこそ十分に自らの果たすべき使命を果たす、そのような霊の自由に生きるべき存在であることの証しの時なのです。新たな聖霊の風が、今の不自由な世界の状況の中で、私たちを真実に自由な、自分自身の自由をも主のみこころを現すために制限できる、真の信仰へと導くのです。
(2020年5月31日週報より)