ひとりで祈る時

 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
                (マタイによる福音書6章6節)

 季節は初夏の日差しが射し込み、爽やかな風が肌に心地よく感じられる気候となりました。教会の庭にも、様々な彩りのバラの花が今や盛りと咲き誇り、その香りを周囲に漂わせています。しかし今年は教会の皆さんには、その見事な盛りの花をお見せすることが出来ないという悲しい現実があります。5月も過ぎれば、花も盛りを過ぎ萎れ散っていくことになるのです。皆さんが教会の礼拝に来られるようになる頃には、もうバラの花の時期は過ぎ去ってしまっているでしょう。しかし、花は人が見ていようがいまいが、その時がくれば咲き、またその時が過ぎれば散っていくのが定めであります。

 今、私たちも、そばに人が共にいない時を多く過ごす日々の中にあって、多くの方が日曜日の礼拝時間に教会の礼拝にも出られず、それぞれの自宅で一人だけで祈りまた黙想をされていることと思います。そのような孤独な状況の中で祈り続けることは、決して喜んで出来ることではなく、またアーメンと共に声を合わせてくれる仲間がいればこそ祈りにも力が入るというのが正直なところではないでしょうか?ただ、イエス様は祈りについてこう教えてもおられます。「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と。

 祈りとはまず「隠れたところにおられる父」すなわち神様との1対1の関係で行われるものなのだと言うことです。宗教改革者であるマルチン・ルターは、毎日、自分の祈りの時を厳守していたと言います。その祈りの時間が来た時は、たとえ来客中であってもお客さんをそのままにして、自分の部屋に入り一人神様に向かって祈ったというエピソードが伝えられているのです。つまり、祈りとは余人を交えない、神様との密談のようなものだと言えるでしょう。それは誰か第三者に聞かせるためではなく、自分が祈った言葉をただ神様だけが聞いていて下さる、その神様との極めてプライベートな関係を大切にすることがイエス様の教えられる祈りの姿勢なのです。

 その時を自分が最も花開かせるタイミングとして外すことはありません。今、人が密集することを避けるために、いつもは美しい様々な花々を観光の目玉にしている公園や施設で、せっかく盛りを迎えた多くの花を切り取らざるを得ないという悲しい現実もあるということです。しかし、私たちは祈りによって、ただ神様だけに見ていただける花を咲かせることがゆるされているのです。

 むしろそれは他人に聞かせることの出来ない、一人一々の痛みや悲しみや悩みによって咲く花かもしれません。しかし、そのような厳しい孤独な現実の中で咲く祈りの花を神様はちゃんと見ていてくださる、その信頼をもって日々の祈りを献げることは決して無駄な無益な行為なのではありません。そして、その私たち一人一々の祈りを「時にかなった祈り」として聞いてくださる神様が、その祈りに対し最も良き答えを与えて下さることを信じ祈り続けるならば、孤独な時にこそ神様が最も身近な聞き手として私たちを理解し慰めて下さる隣人なのだという喜びに生きることが出来るのです。
(2020年5月17日週報より)