主と共によみがえる希望

 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。
                (マタイによる福音書18章20節)

 前にも書いたお話でありますが、西洋の小噺に、ある男が自分の死んだ夢を見たというものがあります。彼は自分が死んで、その後目覚めると、とてもきれいに掃除がしてある部屋にいることに気づきます。そして一人の召使いが現れ、彼が望むものは何でもすぐに出してくれるので、ここは天国に違いないと喜んだのです。しかし、その内に、自分が何もしないでも望みが叶うことにあきたらなくなった男は、召使いのような人物に「私にも何か仕事をさせてほしい」と申し出ました。すると「残念ですが、ここではその願いだけは叶えられないのです」という返事だったので、男は「もう何もしないでいることに耐えられない。これではまるで地獄だ」と叫びます。すると、召使い風の人物がこう言いました。「あなたは今まで、ここがどこだと思っていたのですか?」

 この小噺の題は「地獄」というものでありました。人間は自分の願い通りに何でも叶うことが幸福で、天国とはそのようなところだと空想しがちですが、本当は自分一人の望みや願いが簡単に叶ってしまうというのは、すぐに飽きてつまらなくなってしまう、そのような束の間の快楽に過ぎません。むしろ、自分の願い通りに上手くいかない人生を苦労しながら生き、また自分が何かを行うことで他の誰かが喜んでくれる、そういう他者と共に生きられる場所こそ本当の天国だと言えるのではないでしょうか?

 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」とイエス様は語られましたが、今私たちはそのように集まって祈りを合わせることの出来ない状況に長く置かれています。食べるもの飲むもの着るものに何一つ不自由はなくても、人と接触することは避けなければならない、家の中に留まり、仕事も極力自宅で行うことが奨励され、誰とも会わず一人で長時間過ごす時間が否応なく続く。そういう毎日を過ごさざるを得ません。まさしく、このような「地獄」の中に今私たちはいるのだという気がします。

 しかし、私たちの主イエスは「よみがえりの主」です。「よみがえり」とは黄泉すなわち地獄のことで、イエス様はその地獄から帰って来られた方なのです。十字架に死に地獄にまで降りて行って、その地獄にいるイエス様以前に生まれ死んだ人々にも福音を宣べ伝えたと言われる、それが「よみがえりの主」私たちの主イエスのことなのです。ですから、今私たちが経験している小さな「地獄」の中にもイエス様は来て下さっている、そして地獄からよみがえった方として、私たちをもよみがえらせるためにイエス様が共に祈りを合わせてくださる。そのことを覚え、感謝しましょう。

 よみがえるということは、たんに元のような生活に戻ることではありません。今まで当たり前であったことが、どれほど恵みに満ちたことであったかを知り、自分の人生がどれほど多くの人との触れあい交わりによって支えられてきたものであったかに気づかされ、もはや自分だけの喜びや一時の快楽には生きられない、他者と共に生きる喜びを何よりも大切にする者へと変えられていく。それが主と共に「よみがえり」を経験した者の姿なのではないでしょうか。今経験している私たちの小さな地獄も、やがて主と共にある喜び満ちた天国へと私たちがよみがえる一歩手前の出来事なのです。
(2020年5月10日週報より)