キリストの苦しみが満ちあふれる時

 神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にいる人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。(コリントの信徒への手紙 Ⅱ 1章4~5節)
                

 「キリストの苦しみ」とは何でしょうか?それは、すべての苦しみを他人事としない苦しみのことではないでしょうか?今、私たちの社会は、コロナウィルスの感染拡大のため、子どもたちも外で友達と遊ぶことも学校でクラスの皆と授業を受けることすら出来ない環境に置かれています。また、大人は会社に出勤することも憚られ、自宅でのテレワークを余儀なくされる人も多い中、どうしても出勤しなければならない人たちは感染のリスクを覚悟で出かけなければなりません。一方では、多くの人が密集するお店やイベントは、閉店や自粛を求められ、そのため収入の道が断たれこれからの生活に多大な不安を抱えざるを得ない人たちも少なくありません。また、病院や福祉施設では、医療従事者のお医者さん、看護師さん、ヘルパーの人たちも自らが感染する危険の多い中、さらには自分が感染源となってしまうかもしれないという恐れを感じつつ、必死で患者さんたちを看護し治療し続けるというギリギリの状態に置かれています。

 このように社会全体が、もはやコロナウィルスの感染の脅威が決して他人事ではないと気づかされている、それゆえ、自分の行動が周囲にどれほどの影響を与えるかを常に意識させられるようにされているのだと言えます。確かにそのような状況は、一方では戦時中の隣組のように、お互いがお互いを見張って「あの人は街中でマスクを着けていない」とか「この非常時に外に遊びに行っている」という非難の目で見る息苦しい社会を人間関係をも生み出す原因ともなります。しかしまた一方では、そのような状況であるからこそ、自分が決して周囲の人に責任の無い生き方をしてはならない、他人に対し大きな影響を与える責任ある存在だという自覚を持つ人も多く現れることも事実なのです。

 キリストの苦しみとは、人が他者に対し自分が大きな責任を持っているという自覚から生まれる苦しみのことだと言えます。イエス様は、私たちすべての人間を罪と死の束縛から解き放つために、罪なき身でありながら、その身を十字架につけてまで私たちの罪を身代わり、その死によって私たちの死によって滅びるべき命を、永遠の命へと変えてくださったのです。その最も大きな愛は、私たち人間に対しどこまでも責任を負ってくださる神様のみこころによるものであったのです。その神様の愛ある責任を、神の御子であるイエス様が十字架の苦しみを通し現してくださったのです。それゆえ、そのキリストの苦しみによって慰めを受けた私たちも、私たちの苦しみを通し他者の苦しみを慰めることが出来る、他者の苦しみを他人事とせずに、共に負うことをも喜びとする、責任ある人間として生きることが出来るのではないでしょうか。今、教会では共に集まり礼拝を守ることの出来ない苦しみを誰もが感じています。しかし、この苦しみをも「キリストの苦しみが満ちあふれて」私たちに及んでいるしるしとして、やがて共に慰めを受ける希望の時を目指し、耐え忍んでいきましょう。
(2020年4月26日週報より)