心を燃やす言葉

すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。(ルカによる福音書24章31~32節)
                

 ルカによる福音書の記すイースター物語に、クレオパというイエス様の弟子と、もう一人の弟子とが、エルサレムからエマオへと向かう途上、復活したイエス様に出会ったという記事があります。しかし、その時、二人の目は遮られ、イエス様だとは気付かなかったということです。「目が遮られる」とはどういう状態を意味することでしょうか?

 ある本にこのようなお話が載っていました。三人の男が、海の上で嵐に遭い、舟が転覆して波にもまれるうち、気が付くとある島の浜辺に打ち上げられていました。そこに神様が現れ三人に「あなたたちの願い事を、一つだけ叶えてあげよう」と言いました。そこで一人の男は「私に今以上の勇気を与えてください」と頼みます。すると男はたちまち、どんな困難にも立ち向かえる勇気が湧いてきて、海に飛び込み陸地を目指して泳ぎ始めました。しかし何時間も泳いでいるうちに、ついに力尽きて海にしずんでしまったのです。それを見て、次の男はこう言いました。「神様、私に今以上に器用に動く指をください」と。するとすぐに男は島にある木を使って、器用に舟を作り上げました。そして、その舟で島を脱出したのですが、再び嵐が起こり船ごと海に呑み込まれてしまったのです。最後に残った男は神様にこう願いました。「どうか、私に冷静な心を与えてください。」そうすると心が落ち着いてきて、自分が流れ着いた島の周囲を見渡す余裕が生まれ、ふと目を上げると「あっ、あんな所に橋が」・・・

 このお話のように、私たちは困難な状況に置かれた時、ある人は自分の勇気を頼りに困難に立ち向かおうとします。また、ある人は自分の知恵を武器に困難な状況を切り抜けようとします。しかし、そのように自分の勇気や知恵をもって自分を救おうと躍起になっている時、すでに神様によって備えられている別の救いの道があることに気づくことが出来ないことも多いのです。

 イエス様が十字架の死を遂げた時、クレオパたちイエス様の弟子たちは、これから自分たちがどうなるのか、どこへ向かえば良いのか、自分たちの行く末に試行錯誤し肝心のイエス様が目の前に現れても、それが復活したイエス様とは気付くことができなかったのでしょう。しかし、イエス様は、彼らに聖書全体にわたり「ご自分について書かれてあること」を説き聞かせ「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入る」ことが神様の御心であったことを彼らに告げたのでした。そのイエス様の説き明かしを聞いていた間、クレオパたちの「心は燃えていた」ということです。灰の中の熾火(おきび)に息を吹きかけると、火の勢いが強まって燃え上がるように、クレオパたちの心に、イエス様を失って悲しみに沈み消えかかっていた希望の火が、イエス様の御言葉の息を吹き入れられ再び燃え上がったのでした。私たちも今、教会の礼拝に集まることの出来ないという、かつてなかった困難な状況に置かれていますが、御言葉は聖書を通し常に私たちの傍らにあります。私たちの心の火を燃え上がらせてくださる主の息として。
(2020年4月16日週報より)