主の過越し

 父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。(マタイによる福音書26章39節)
                
 「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」とイエス様は祈られたとあります。今、わたしたちの世界は本当に誰も望みも願いもしなかったパンデミックという災いにより、人と人、国と国との間に互いに自由に行きかいすることも出来ない制限がかけられ、また経済的にも大変な打撃を蒙る結果となっています。今年、東京で開催される予定であったオリンピックも、1年延期という異例の決断を余儀なくされ、期待と夢に胸を膨らませていた多くの人たちが失望と落胆を味わうことになりました。

 私たちの世界は、本当に自分の願い通りにはならない、逆に思いもよらない不幸や災いが次々と起こる、そのような私たちが望まない運命に左右される現実が圧倒的に多いことを認めざるを得ません。イエス様もまた、ご自身が苦しみを受け十字架において死を遂げる、その悲惨な運命の迫る中「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と父なる神様に祈られた方だったのです。時はイスラエルの大祭「過越しの祭り」の真っ最中でした。過越しの祭りとは、かつてエジプトで奴隷とされていたイスラエルの民を救うために、神様がエジプトのすべての初子を死の使いによって打ち死なせるという災いを下した時、イスラエルの家の前だけは死の使いが「過越し」ていった、その出来事に由来する祭りでありました。そのような過越しの祭りの只中で、イエス様が「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈ったのは、いかにも時機を得た祈りであったのです。

 しかし、イエス様はその十字架の苦しみの運命が御自分を過ぎ去ることはないということを知っておられたのだと思います。確かに、イスラエルの民を死の災いから救われた神様が、イエス様一人をその死の運命か救うことなどお出来にならないはずはない、その確信はイエス様もいだいておられたことでしょう。ただ、イエス様は、それが神様の「御心」でなければ過ぎ去ることの出来ない運命であることも承知していたのです。

 イエス様の十字架の運命は、この世界が神様の御心に逆らう罪に満ち溢れていることに対する怒りの裁きを、イエス様が罪なき神の御子として一身に背負われ、それによって私たちすべての者が受けるべき死と滅びの運命を、私たちから過ぎ去らせてくださる神様の御心だったのです。世界的規模で行われオリンピックも、パンデミックという災いによってその予定を変えざるを得なくされましたが、イエス様の十字架の運命は神様の御心のうちに決して変えられることのない救いの御業として行われたのです。

 今私たちが経験しているコロナウィルスの脅威も、決して私たちの世界を滅ぼし尽くすほどの力とはならず、いずれは過ぎ去っていく一時の災いでしょう。しかし、その一時の災いさえ、この世界をこれほどに変えてしまう影響を与えるのであれば、神様の御心によってなされたあのイエス様の十字架の御業が、私たちが罪によって滅びるべき運命を、私たちから過ぎ去らせる決定的な影響を与えないはずはありません。「御心のままに」と祈られたイエス様の祈りが、どんな災いからも私たちを救う究極の力なのです。
(2020年3月29日週報より)