主が涙を流すほどに

 イエスは彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。(ヨハネによる福音書11章33~35節)
                

 「イエスは涙を流された」とヨハネ福音書は伝えています。それは、イエス様の弟子でラザロという人が死に、そのラザロの墓を目にした時、イエス様が泣かれたということであります。イエス様がこのような悲しみ涙を流すという描写は、福音書の中にここだけなのです。確かに、人間としてのイエス様は幾度も涙を流すような場面があったでしょう。悲しみの涙以外にも、同情して流す涙であったり、時には嬉し涙を流すこともあったでしょう。しかし、イエス様が泣いたことが描かれているのはこのラザロの死の場面以外にはないのです。それは当然、愛する者の死を前にしてイエス様が涙を流されたという悲しみによるものであったのでしょうが、たんにそれだけの理由ではなかたのではないでしょうか?このラザロの死は、すでにイエス様が何日も前に知っていたことだったのです。そのラザロの死を知ってイエス様は弟子たちにこう言われたとあります。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と。

 イエス様はラザロを「起こしに」出かけて来られたのですが、それは死という「眠り」から彼を目覚めさせるためであったのです。であるならば、イエス様はなぜ彼の墓の前で泣いたのでしょう?死を「眠り」であるとイエス様は語られ、その死からラザロをよみがえらせることが出来ることも、イエス様はご存じであったのです。そのイエス様がラザロの墓の前で泣いたということは、ただ死を永遠の別れとして悲しんだからではなく、ラザロが死ななければならなかった、その死という現実に対し、「憤り」「興奮」しつつ流された涙であったのです。

 死をあきらめて「どうしようもない」ものだと思っているなら「憤る」ことも「興奮」して泣くこともないでしょう。しかし、イエス様は死をあきらめない方であり、むしろ死を「あってはならない」ものとして憤り、その死によって奪われた愛する者を奪い返すことに全力を傾けられるのです。たとえ、一時であっても死によって失われた愛するラザロに対し、イエス様はその一時の別れでさえ悼み悲しまれます。しかし、それは再び会うまでの別離の涙であり、わずかな間にもその不在を「あってはならない」こととして流す涙なのです。今、私たちの世界は、コロナウィルスの蔓延によって、学校は一斉休校になり、スポーツやコンサートや演劇等多くの人が集まるイベントも中止や無観客という状況に追いやられています。春の甲子園選抜も、中止を止む無しとし、多くの球児たちが一生に一度のチャンスを失うという辛い思いをしたことも事実です。このように、「あってはならない」状況が私たちから多くの希望や夢を奪い去っていく現実を、あきらめざるを得ない中、この現実を最も憤り、最も嘆きも悲しむ方がイエス様なのではないでしょうか。イエス様はラザロをその一時の死からも奪い返されましたが、そのイエス様が憤り涙を流されるほどに「あってはならない」罪と死の支配に追いやられているこの世界からも私たちを奪い返す、それが主の十字架による愛の御業なのです。
(2020年3月22日週報より)