いつものように、いつもの場所で

 イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。(ルカによる福音書22章39~40節)
                

 ルカ福音書には、イエス様が十字架に掛かる直前、弟子たちを連れてオリ-ブ山に行かれ、そこで父なる神様に祈りを献げるという場面が記されています。その時、イエス様は「いつものように」オリーブ山に行かれ、「いつもの場所」に来られ、そこでお祈りをしたとあります。つまり、イエス様はエルサレムの都に来られてから、毎日、一人でオリーブ山に出かけ、いつも決まった場所でお祈りしていたと言うことなのです。

 明治時代、多くの身寄りのない子どもたちを引き取り、養育した石井十次というキリスト者は、借りていたお寺の庭の決まった場所で、毎日ひざまずいて祈りを献げていたと言います。そのため、彼が祈るためひざまずいた部分には草が生えず、そこだけポッカリと地面がむき出しになったということです。それほど、何日も同じ場所で祈り続けていたということなのです。

 人は一人落ちついて祈ろうとする時、決まった時間、決まった場所で祈りを献げようとするのではないでしょうか。祈りに限らず、仕事をする時やスポーツを楽しむ時も、時と場所が決まっていた方がやり易いというのも事実でしょう。今、コロナウィルスの感染拡大のため、学校も一斉休業し会社も自宅でのテレワークで行う所も増え、いつも決まった時、決まった場所で普通にしていた日常生活が出来ない状態に陥っています。教会でも、礼拝に集まることを躊躇せざるを得ない、また、消毒薬を用意しマスクをしていないと集会もままならないという現実があります。

 このように「いつもの時間」「いつもの場所」で落ち着いて祈り、考え、行動することが出来ないことに、不安や怖れを感じている人が多くいることと思います。イエス様も十字架の運命を目前にして、決して穏やかならざる心境にあったことでしょう。しかし、イエス様は「いつものように」「いつもの場所」に向かわれ、祈りを献げられたのです。また一緒に連れてきた弟子たちに対しても「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われたとあります。

 確かに、いつものように普通の生活が出来ないような非常事態の中で、落ち着いて祈ることや行動することは至難の業でしょう。しかし、そういう非常事態の時にこそ、「いつものように」神様の守りと導きを覚え、自分がなすべきことを「いつものように」なし続け、「いつものように」穏やかな生活を守っていくことが「誘惑に陥らない」ために必要なことなのだと思います。マスクが品不足になり、トイレットペーパーやティシュが一斉にスーパーの棚から姿を消してしまうようなパニックが起きていますが、それが私たちの日常を破滅させるほどのものではないことを覚え、イエス様がご自身の十字架の運命を前に苦しみながらも「御心のままに行ってください」と私たちの世界の救いのために祈って下さった、その愛にすべてを委ねつつ、これからも「いつものように」自分が最も落ち着いて考え行動していけるよう、主と共に祈りましょう。
(2020年3月8日週報より)