目に見えない希望

 見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。(ローマの信徒への手紙8章24~25節)
                
 今、新型コロナウイルスが中国の武漢市を起点としてその感染が広まり、日本にも上陸しその猛威は留まることがありません。武漢市は町ごと封鎖され、住民の移動も制限されている状態にあり、すでに600人を超える死亡者が出ているとのことです。また、病院ではベッドが足りず、入院したくても出来ずにいる患者の人たちも数知れず出ているとも報道されています。このような状況の中、海外からの旅行者や帰国者の入国を拒むような措置もとられ、横浜港に入港するはずだった大型客船も乗客の中に発症した人が出たことで、検疫のため海上に2週間も留められることになりました。

 このような目に見えないウイルスが、日常の生活を一変させ、人の健康はもとより、国と国との交流を妨げ、感染した人に対し厳しい隔離や、ともすると差別までも生み出してしまう、そういう現実をまざまざと見せつけられる事態になっているのです。目に見えないものが、目に見える現実を破壊し支配する最も恐ろしい力を持っているのだということをあらためて感じています。そして、私たちの世界の、目に見えるものだけに頼る生活がいかに薄っぺらな安心の上でなされているものかに気づかされます。

 しかし、信仰においてはその目に見えないものこそ希望であると聖書は伝えているのです。目に見えるもの、お金も社会的立場も地位も名誉も、それを持つ人に対しては安心できるもの拠り所となるものですが、安心は希望ではありません。むしろ、この目に見える安心を覆すような、目に見えないウイルスが人間社会を揺るがす猛威を振るう時、私たちには別の目に見えない存在こそが希望となり力となることを知らなければなりません。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。」(ルカ5章31節)とイエス様は言われました・私たちの世界が目に見えるお金や豊かな生活、保証された老後というような「安心」のみを人生の中心にし、目に見えない神様や愛や信仰など日常生活には何の足しにもならないと無視し軽んじるかぎり、まさしく私たちは自分の「健康」だけを価値とし、病人は無価値なものとして切り捨て排除することしかしない、そのような強者しか生きられない世界を作り上げてしまうでしょう。

 しかし、イエス様は私たち人間一人一々を「病人」として見られ、また医者を必要とする「癒されるべき存在」として認知されるのです。どんな目に見えるものも、健康も財産も地位も名誉も、それが人をいつまでも「安心」させるものとはならない、むしろ、目に見える安心はかならず失われていくことをイエス様は知っておられるのです。だからこそ、イエス様は医者として、私たち一人一々を癒すべき病人として、罪あるままかけあるまますべてをご自身の愛の内に招き入れられるのです。そこでの特効薬は主イエスに対する信頼そのものであり、主の十字架の贖い復活の希望こそが私たちへの処方箋なのです。ウイルスが国教を越え猛威を振るう以上に、主の愛は国も民族も立場の違いも貫きすべての人を癒し救う「目に見えない」希望として広まるのです。
(2020年2月9日週報より)