不完全なものを受け入れる愛

 わたしたちは、十字架につけられたキリストを(中略)・・・ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが(中略)・・・召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを伝えているのです。(コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章23~24節)
               
 陶器を作る職人は、その陶器が焼きあがって窯から取り出すまで、それがどのような色艶を持つ物になるのかは本人も分からないと言います。こんな風になるだろうと想像しても、その通りにならないことも多いのでしょう。しかし、自分の想像通りにならないから失敗作とは言えないことも事実なのです。むしろ自分の想像を超えた色艶を持つものが出来上がることがあり、そういう自分の作品を作者自身が感動して喜ぶことがあるのです。そのような作り手自身を驚かせ喜ばせる作品こそ、神様の知恵によって創造されたものだと言えるのではないでしょうか。

 神様は全知全能をもって天地万物を創造されたと聖書は語りますが、その全知全能の知恵をもって創造されたものは、神様ご自身を驚かせ喜ばせる出来栄えだったのではないでしょうか?神様はご自身驚くほどの出来に万物を創り「良しとされた」のです。そして、その最高の出来栄えのものが私たち人間であった、と聖書は伝えているのです。しかし、その神様の最高傑作である人間が、神様に対し罪を犯し神様の御心から最も遠い存在となってしまったことをも聖書は明らかにしています。神様が全知全能であるならば、どうしてこのような罪を犯す不完全な人間をお創りになったのでしょうか?

 神様の全知全能はコンピューターのそれとは違います。コンピューターは完全に過ちのない答えを出す、人間をはるかにしのぐスピードで正解を答えることが出来ますが、どんなに過ちのない正解を出しても、それはすべて想定内の出るべくして出た答えであって、コンピューター自身はその自分の出した答えに喜びも驚きもしません。神様の全知全能は、神様自身が驚き喜ぶほど想定外の結果を出し、それゆえ決して過ちのない完全なものを創られる知恵などとは違うのです。ある意味、神様の全知全能は不完全ものをな創りだせるほどの知恵と力なのではないでしょうか?

 不完全なものを産み出す全知全能という言い方自体、矛盾した言葉であることは承知していますが、私たち人間という存在がいかに矛盾に満ちた存在なのかを思う時、神様がそのような矛盾をあえてご自身の創造の結果として受け入れられたとしか思えません。しかも、その人間が神様に背くほどの罪を犯し滅びざるを得ないものになり下がってしまったことに、神様がどれほど深い悲しみと痛みを感じざるを得なかったか・・・それもまたコンピューターが自分の出したか完全な答えに対して抱くことのないものです。

 信仰とは、自分自身が不完全で罪に満ちた存在であることを、自分以上に悲しみ痛みを抱かれる神様のみこころを知り、その矛盾した自分をとことん愛し受け入れて下さる神様にすべてを委ねる姿勢です。イエス様がその私たち人間のため罪の贖いのわざ、十字架に掛かって下さった、その深い限りない愛とゆるしこそが、不完全で矛盾に満ちた私たちを「良しとされ」驚きと喜びの傑作として受け入れる神様の御心なのです。
(2019年11月24日週報より)