小さな群れとして(2)

 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。(ルカによる福音書12章32節)
                
 先々週の12日土曜、13日日曜にかけて、趙大型の台風19号が、東海地方から関東、長野、東北と甚大な被害をもたらしたことはご存じのとおりです。死者、行方不明者が80数名にも上り、家屋損壊、農作物の被害等、生活基盤を失われた被災者の方々の悲しみ痛みは想像を絶するものがあります。このような自然の猛威の前では、私たち人間の営みがいかに小さく脆いものか、そのことを思わずにはいられません。しかし、そのような小さなものに対して、神様は決してその小ささゆえに無視されず、むしろ恐れることなく生きる力と希望とをお与えになる、そのことを聖書は教えているのです。

 何年か前、友人と一緒にある牧師の説教を聞きました。その牧師は次のようなお話をしてくれたのです。「人間は自分の小ささを恥じ隠したいと思う。その反動で威張ったり、自分の持ち物や経歴をひけらかし、自分の地位によって自分の城を築こうとする。でも、そんな人こそ、自分の小ささを恐れてはならない。」。その説教を聞いた友人が後でこう言いました、「全くその通りだな。俺の職場の誰々はいつも威張ってばかりで、どうしようもないんだ。あいつは本当に小さな奴だ」と。私はそれを聞いてこう応えました。「そんなこと言っちゃあ駄目だよ。小さい者よと言われているのはまず自分のことだと思わなきゃあいけないんだ。まず、自分の小ささを認めるというのが今日の先生の説教の主題なんだから。」そう友人を戒めながら、私は心の中で「でも、確かにあの教会の何々牧師は本当に小さい奴だよなあ」と顔見知りの牧師のことを思い浮かべていたのです。結局そういう自分が一番小さい人間であることを思い返し、他人のことは言えないなと反省させられました。

 しかしその「小ささ」こそ、イエス様の十字架の大きさの前に立つ、私たち一人一々の真実の姿なのでしょう。超大型の台風の前では、人間が普段営む生活も、人間が誇る文化も技術も、ひとたまりもなく押し流されてしまう、そのように私たちが自分の知恵や知識、自分の社会的名声や地位を頼り誇りとしていても、イエス様のあの十字架の愛の大きさの前では、実に取るに足りない「塵あくた」に過ぎない。そのことをまず知らされているのが私たちキリスト者であります。

 主イエスはこの世の価値や評価から最も遠い、最も無価値で誰もが認めることのない十字架に自らを晒し、そこに限りない人間への愛とゆるしの御業を現されました。その主イエスの十字架と復活の出来事を通し、私たちはもはや自分がこの世で得る力や地位や名誉も何ほどの価値もないことを知ったのです。むしろ自分の小ささ弱さのゆえに、イエス様が十字架によって贖って下さらなければ救われない身の上であることを、私たちが率直に認め受け入れる時、この世で何者かにならなければならないと焦り無理をし地位や名誉に執着する必要もなくなった、そのような解放の喜びを与えられるのであります。今、台風の被害で多くのものを失った被災者の人たちの姿は、まさに他人事ではなく私たち一人一々自らの姿であります。そのような「小さな群れ」として、しかしだからこそ、助け合い支え合う喜びを知る群れとして、主イエスの愛を現し、共に神の国を実現していきましょう。
(2019年10月20日週報より)