主の愛によって結ばれる家族

神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。(マルコによる福音書3章35節)
                
 私は牧師という仕事を38年間続けてきていますが、時々、教会員の方以外の人の葬儀を依頼されることが何回かありました。もちろん役員会の承認を得たうえで行うのですが、正直、自分がその生前にお会いしたこともない方の葬儀にたずさわることには、いつもためらいを感じてしまうというのが正直な気持ちです。確かにそのような面識のない方の葬儀では、キリスト教の死生観といったようなお話をして済ませることも出来るのですが、果たしてそのような通りいっぺんの聖書講話のようなことを語っても、遺族の方たちにどれほどの慰めになるのだろうか、という私自身の疑問も躊躇を覚える原因の一つなのです。

 しかし、ある未信者のお医者さんのお葬式を引き受けることになった時、故人のお連れ合いの方が、生前の故人について次のようなエピソードを語ってくださいました。「主人は仕事熱心な人でした。ある時、私にこう言ったのです。『僕には僕を待っている患者さんがいるから、なかなか家に帰れないことが多い。だから、僕はいないものだと思ってほしい』と。」その言葉を聞いて、私は顔も知らないその故人の生前の姿をおぼろげながら想像することが出来ました。ああ、この人の人生にも、あのイエス様の導きや支えがあったのだな、という確信が与えられた、そのように思えました。それで、私も深く納得してその方の葬儀に取り組むことが出来たのです。

 「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」・・・生前は顔も名前も知らなかった人とも、その葬儀を通して「兄弟、姉妹、母」として私たちは結び合うことが出来るのです。イエス様の愛の万分の一でも、その人生の中で示すことが赦された人は、生前たとえ信仰を持っていなかったとしても、イエス様の目には「父なる神の御心を行う」兄弟姉妹、また母として大切な家族の一員として映るのです。そしてイエス様は、この世では名前も顔も知らない同士の者をも、永遠の神様の愛のもとで、家族として結び合わせてくださっていることを聖書は伝えているのです。

 スイスの神学者カール・バルトのところに、ある一人の女性が訪れ「復活の時には、先だった愛する家族と会えるというのは本当でしょうか?」と尋ねたそうです。バルトは「それは本当です。愛するご家族とかならず会えます」と答え、その婦人は安心して帰っていきました。ところが翌日もバルトのもとへ同じその女性が来て「復活の時は・・・」と同じ質問をしたので、バルトも同じように「かならず会えますよ」と答え、女性は帰っていきました。しかし、次の日もまた同じ女性がバルトのところに現れ「本当に愛する家族と会えるのでしょうか?」と繰り返し訪ねたので、バルトはこう答えたと言います。「愛する家族と会えるのは本当です。でもそれ以外の人とも会うことになるでしょう」と。イエス様の言われる家族とは、たんに肉親の情愛だけでつながるものではなく、この世では見知らぬ他人同士であっても、主の愛を信じる者は皆、互いに「兄弟、姉妹、母」として、時代も人種も宗教さえも乗り越えて、「神の御心を行う」愛に生きるすべての人のことなのです。
(2019年2月24日週報より)