誰かを喜ばせる喜び

 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っている人は持っているものまでも取り上げられる。(マタイによる福音書25章29節)
                
 石垣イチゴという、静岡の名産品があります。もともと、久能山東照宮の石垣に植えられたものがその始まりであったそうです。このイチゴも、明治の頃に東京から来たお坊さんがたまたまお土産に持ってきたものを、地元の人がためしに久能山の石垣に植えたところ上手く実をつけ、石垣イチゴとして売られるようになったのです。今では、イチゴ海岸通りという道筋に、何軒ものイチゴ農園が並んで観光客を出迎えるほどの盛況ぶりでありますが、最初この東京からのお土産のイチゴを食べた人たちは、その美味しさが忘れられなくて、地元でも生産したいと石垣にイチゴを植えたのではなかったでしょうか?自分たちだけではなく、もっと多くの人にこのイチゴの味を知ってもらいたかったに違いありません。

 福音書のたとえ話に「タラントンのたとえ」と言うのがあります。タラントンというのはイエス様の時代のお金の単位ですが、ある主人が旅に出かける際、3人の僕にそれぞれ違う額のタラントンを預けていくという話です。5タラントンと2タラントン預かった2人の僕は、それを元手に商売をして、それぞれ預かったタラントンを倍にして帰って来た主人に渡し、主人は喜んでその僕たちを褒めます。しかし、1タラントン預かった僕は、その1タラントンを少しでも失うことを恐れ、土の中に隠し、帰って来た主人にそのまま返します。その僕の姿に腹を立てた主人はその1タラントンを取り上げ、家から追い出してしまうという結末です。

 私はこのタラントンとは、石垣イチゴのようなものに思えます。自分たちだけで食べてしまえば全部無くなってしまうものを、その美味しさを他の誰かに伝えたくてそれを植えたら、丁度気候も土もそのイチゴに適していたので何倍もの実をつけ、多くの人を喜ばせるものとなった。それと同様、自分に与えられた神様の恵みを自分のためだけではなく、他の誰かに伝えたい、他の人を喜ばせるものとして広めていきたい、そう願う気持ちがタラントンを増やすということなのです。

 「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」タラントンのたとえで、主人から与えられたタラントンを主人の喜ぶ顔を見たさに商売で増やした僕は、主人のほめ言葉に更に大きな喜びと希望を持ったことでしょう。しかし、主人の叱責を恐れて与えられたタラントンを土の中に隠し、そのまま何もしなかった僕は、折角与えられたタラントンまで失ってしまいます。彼には自分に与えられているものへの感謝も、それを与えてくれた主人の期待に応えようとする思いもなく、また他の誰かを喜ばそうとする愛の気持ちが欠けていたと言えるでしょう。

 私たちは、信仰というタラントンを与えられ、それが自分の知恵や努力ではどうにもならない罪や死の問題をイエス様の贖いのわざ、復活の出来事によって解決されているという最大の喜びを知っています。その喜びをまた誰かを喜ばせなるために伝えて行く、その努力が、更に多くの喜びをこの世界の中に生み出すのです。
(2019年1月27日週報より)