神の国の戸口

 狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。
                   (ルカによる福音書13章24節)

 イエス様のたとえ話の一つに「狭い戸口」というお話があります。それは主人が家の戸を閉めてしまった後でやって来た人が「御主人様、開けて下さい。」と頼んでも、決して開けてくれず「お前たちがどこの者か知らない」と拒絶されるというお話です。たとえ「御一緒に食べたり飲んだりしましたし、またわたしたちの広場で教えを受けたのです」とその家の主人との親しい関係を主張しても「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」と言って取りつくしまもなく追い返されてしまう、そのような大変厳しい内容のお話であります。

 その厳しさは神様の御言葉を聞く者に対する厳しさだと言えます。「一緒に食べたり飲んだり」した関係であっても、そのような関係は決して相手との親密さがいつまでも続く保証とはなりません。私の父は企業のサラリーマンンとして多くの人と仕事を一緒にし、また仕事上の付き合いでいろんな人たちと飲んだり食べたりする機会もありました。その当時は付き合いのあった人たちから、毎年何百枚もの年賀状が父のもとに届いていたのです。しかし、父が退職したとたん、年賀状がそれまでの半分以下になってしまい、父がその年賀状の束の薄さを見て寂しげにしていた姿が忘れられません。

 また「広場で教えを聞く」ということも、大勢の人たちと混じって講演を聞くようなもので、「ああ、今日は良い話を聞いた」と、その時は感動して聞いたとしても、それが自分の人生を大きく変えるものになるほどの言葉として心に残るのかと言えば、そうはならない人の方が多いのです。大切なことは、「狭い戸口」から入るように、見つけづらい入りづらいその戸口を、自分の目で見つけ、そしてそれを自分が招かれ入るために開けられている貴重な戸口として信じるなら、苦労してでもそこに入っていく努力を惜しまないということです。

 聖書の御言葉も、それが自分に向かって語られ、自分が神の国へ招かれ入ることの出来る開かれた戸口として受けとめるならば、それは今しか聞けない、この時にしか語られない貴重な一言一言として、忘れられない言葉として、いつまでも心に留まっていくことでしょう。今、まだ閉めきられていない戸口として、聖書の福音の言葉は誰に対しても開かれています。しかし、その時を逃しては聞けなくなる、聞こうとしても聞けなくなる時が来ることも確かなのです。昔、テレビの録画機能もなかった時代、人は自分がどうしても見たい番組やドラマの放映時間には、何を差し置いても家に帰りテレビの前に座るのが当たり前でした。その時を逃したら2度とみることは出来なかったからです。それと同じように、私たちにとって聖書の御言葉も、その言葉を目にし耳にする時が、後にも先にもこの1度限りだという緊張感をもって聞いていかねばなりません。そしてその御言葉を自分に向かって語りかけられたものとして聞くならば、それを神の国への招きのメッセージとして喜んで聞き、また他の人へも宣べ伝えるべき価値ある言葉として堂々と語ることも出来るのです。その時にすでに私たちは神の国の戸口に入っている一人一々なのです。
(2018年9月16日週報より)