2020年1月26日

神様の恵みを数えて
 なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。・・・覚えていないのか。わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。
                (マルコによる福音書8章17~19節)

 4千人の人たちに、7つのパンを裂いて分け、その人たちを満腹させるという奇跡を行われた後、イエス様は弟子たちと共に湖を渡るため小舟に乗られました。その舟に、奇跡を行った時に余った7籠いっぱいのパン屑を乗せるのを忘れてしまった弟子たちは、イエス様から「ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言われた時、その言葉を自分たちがパンの籠を置き忘れてしまったことを咎める言葉だと思い込み、互いに論争を始めたのでした。
 この時イエス様は、律法の掟を振りかざして自分たちの考えを絶対化するファリサイ派や、ローマ帝国の後ろ盾によって支配者として君臨するヘロデ王たちの「虎の威を借る狐」同然の見せかけの教え、その権威主義に対して、それらの教えや言葉に惑わされるなと弟子たちに語られたのです。
 しかし弟子たちは自分たちの失敗にばかり気を取られ、一体誰が悪いのかと責任を押し付け合うような見当違いの論争を始めたのです。この弟子たちのように、私たちは、自分の失敗や過ちに囚われて、大切な言葉もその意味も聞き逃してしまうことがあります。
 私はしょっちゅう失敗ばかりする人間ですので、いちいちどんな失敗をしたのか覚えてはいませんが、やはり自分が失敗したことで人に迷惑をかけてしまった時には「ああ、自分はなんて駄目な人間か」と落ち込むこともあります。もし出来得るなら、時計を巻き戻して、もう1度やり直せればと思うことも多いのです。しかし、そのような失敗をも含め、自分の人生は自分の責任で生きるしかないということは、動かしようのない事実なのです。
 イエス様の弟子たちは、自分の失敗の責任を余りにも大きく感じすぎて、またその責任の大きさを負いきれないという思いに囚われ、お互いに「お前が悪い」「お前がもっと気を配っていれば」という罪を擦り付け合うような醜態を晒したのです。しかし、その弟子たちにイエス様は次のように言われました。「五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は幾つあったか」と。それは12の籠であったことを弟子たちは思いだしました。私たち人間が、どれほど多くの過ちや罪を重ね、自分でも数えきれない失敗を繰り返しても、イエス様はその人間に対する神様の恵みの多さを数えられるのです。
 時代劇の殺陣では、殺陣師が段取りを決めてその通りの動きを俳優が繰り返すのですが、時々、その段取り通りに行かない場合があります。しかし、その段取りを間違った時、俳優が瞬間的に動きを立て直し殺陣を続ける、その方がリアルな迫力のある場面となることもあると言います。そのように、私たちの失敗だらけの人生も、神様の多くの恵みに囲まれた、神様の奇跡の業が現される人生として意味を持つものなのです。
(2020年1月26日週報より)