2020年1月19日

信仰の人生のゴールを目指し
 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。(ヘブライ人への手紙12章1節)
                
 新年になり、全国でマラソンや駅伝の大会が開かれています。特に今年は、56年ぶり東京オリンピックが開かれるということで、一層、スポーツ熱が高まっている中、選手たちは1秒でも速くまた自己ベストを更新できるよう、日夜、修練に励んでいることと思います。ある人が、マラソン大会に出場した折りの経験を次のように記し手いました。その人が出場したマラソン大会では、ある地点まで制限時間内に到着しなかったランナーは強制的に棄権させられ、バスに収容されゴールまで送り届けられる、そういう決まりがあったそうです。その人はそんな風になりたくはないと一所懸命走ったのですが、自分のすぐ後ろでバスが迫ってきて、次々、遅れたランナーを収容していく、その光景を見てますます焦り必死になって走り続けたといいます。しかし、ついに自分もそのバスに追いつかれて、次の地点でリタイアせざるを得なかったのでした。そのバスに乗せられ、ゴールまで運ばれてしまった、そのゴールは本人にはちっとも嬉しく思われないゴールであったことはいう間でもありません。
 このマラソンという競技は、自分の足で42・195キロを走り抜いてこそゴールに到着した意味があり、本当にその走った充実感と喜びに満たされるものなのですから。その日のために、日夜、修練を重ねて来た人にとって、そのゴールに到着した時の感動は自分が今まで苦しみながら走り続けたすべての時間に対する最大のごほうびでもあるのです。
 信仰とは、そのマラソンランナーがゴールを目指して必死に走り続けるように、ある意味、日々苦しい訓練を自らに課して人生という競技場を忍耐強く走ることなのではないでしょうか?ただ、時には「もうこれ以上は走れない」と足を止めたくなる誘惑にも駆られる、そういう弱さと限界を自分自身感じることがあるのも事実です。しかし、そういう時にこそ、私たち信仰者は「信仰の創始者また完成者である」イエス様を見あげなければならないのだ、と聖書は語っています。私たちを愛し、そのために神様の福音を全力をもってこの世に現され、十字架の死に至るまで私たちを救うことに命を献げてくださった、その限りない愛の足跡が私たちの人生のマラソンコースのゴールまで刻み付けられているのですから。
 そのイエス様の完全走破された足跡が、途中棄権しそうになる弱い私たちをも勇気づけ、最後まで私たちの足を止めさせない希望と力となって励ましてくれるのです。私が学生時代お世話になったある牧師の方が、後年、脳出血で倒れ失語症になられ、隠退されることを決めて最後の講壇に立たれた時、言いたくても口に出てこない言葉を紙に記して教会員の人たちに見せたそうです。そこには「恵」の一文字があったといいます。自分の今までの信仰の人生はすべて神様の恵の一文字であったと。このように信仰の人生のゴールまで神様の恵みと導きに生きた証人がいることに感謝したいと思います。
(2020年1月19日週報より)