2019年10月27日

学び続ける信仰
 わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召し手、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。(フィリピの信徒への手紙3章13~14節)
                
 何年か前、金沢の芸妓さんたちが太鼓や鼓や踊りの稽古をしているところをテレビの番組で取材していました。その稽古をつけているお師匠さんへのインタビューで「今日の出来はどうでしたか?」と尋ねるテレビ局の人の質問に、お師匠さんは「良く出来ていました・・・と言いたいところですが、まだまだです」と、お弟子さんたちの前で厳しいことを言いました。そして次のように続けたのです。「それでも、最初の頃に較べたら上達しました。ただ、芸というものは、これで終いということのない道ですから、いつまでたっても精進しなければなりません。これで良いと本人が思ったら、もうその時は下がる一方なんです。」。
この話を聞きながら、私は信仰というものも同じことが言えるのではないか、と思いました。私たちも「今の自分は、もう信仰者として胸を張って生きられる」と思ってしまったら、もうその時に信仰的には落下の一途をたどってしまう。自分で自分の評価に満足してしまったら、その先一歩も先に進めなくなってしまい、後退する以外にはないのです。ですから、信仰はいつも途上にあるということを忘れてはならないのではないでしょうか。私たちが向かうべき目標はまだまだ先にあり、そこに達するにはさらに多くの困難や苦しみを乗り越えて行く努力が必要なのだ、ということを。そしてまた、自分が達していない目標があることを知っているからこそ、私たちは苦しんでも辛くてもそこに向かうことをやめることは出来ないのです。
 しかし、その信仰の道の困難さも苦しみも、イエス様がまず先立って進んでいかれ乗り越えて行かれた、そのことも私たちは聖書を通し知らされています。私たちの向かう先には、そのイエス様が待っていて下さる、その希望と喜びが私たちを先へ先へと進ませる一番の動機なのです。あるドラマの台詞に「人はすべてを知っていると思い込むことで、真実を見失う」というものがありました。私たちの世界は人間が「すべてのことを知っている」と思い込み、常に自分たちの知識や技術がこの世界をリードしているかのような錯覚に陥っているのではないでしょうか?しかし、そういう人間が神のような座に立って、我が物顔に振る舞うことで、地球温暖化やそれに伴う異常気象が今私たちの生活を脅かしていることは事実なのです。
 そのように、私たちの科学や文明の進歩が、逆に人間が本来生きるべき環境を歪ませ、命を危険に晒す結果となっている、その事実の前で私たちはもっと謙虚になるべきことを教えられるのではないでしょうか。そのことを私たちキリスト者が最も良く知っているのです。人間がすべてを知っているのではなく、まだまだ知らなければならないことが多くあるのだということを。そういう私たち信仰者の知っている知恵が、困難な状況にあるこの世界を、主の導きのもとで救うものとして用いられることを信じ、日々、御言葉に聞き学び続けていきましょう。
(2019年10月27日週報より)