2019年10月13日

苦しみの恵み
 あなたがたは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。(フィリピの信徒への手紙1章29節)
                
 先週1週間、大型の台風19号がこの連休に日本列島を直撃するというニュースが連日テレビや新聞で報道されました。今この週報を目にしている時点で、一体どれほどの被害が出ていることか想像できませんが、なんとか大きな被害や犠牲者が出ることのないように祈るばかりです。この台風のことに限らず、世界はこれからどうなっていくのか、そのような不安や怖れ誰もがを感じざるを得ない、それが今の私たちの生きている現実なのです。苦しみや不幸に遭いたくないのは皆が願うことですが、そういう苦しみがかならずやって来るのも人生の必然であると言えます。
 初代教会の使徒パウロは「キリストのために苦しむ」ことも恵みの出来事であると語りました。ただ、それは「艱難、我を玉にする」と言った格言の一つではありません。パウロという人は、実際、福音を宣べ伝えるために様々な苦難・迫害を経験した、その実体験からこのように語ることが出来たのです。コリントの信徒への手紙Ⅱの11章には、パウロの次のような言葉が記されています。「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度、鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度、一昼夜海上に漂ったこともありました」と。さらには「川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒野での難」等々、パウロが行く先々で遭った数々の苦難の経験が並べ立てられているのです。しかしそれは彼が泣き言や嘆きを訴え同情を買うためでも、自分がこれほど苦労を重ねてきたことを自慢するためでもなかったことは事実です。むしろ、彼はこのような苦難を回想しながら「誇る必要があるなら、わたしの弱さを誇ろう」と続けて述べているのです。なぜなら、人は苦しむことによって自分の弱さを知りますが、また自分の弱さを知ることによって、その弱い自分に誰かが助けの手を差し伸べてくれたならば、そのことを一生忘れられない貴重な思い出として心に刻みつけることも出来るのですから。
 パウロはダマスコで迫害者から捕えられそうになった時「窓から籠で城壁づたいにつり降ろされて」難を逃れた体験も手紙の中で語っています。それは彼を助けようと何人もの人が籠にくくりつけたロープを少しずつ下へと下ろしてくれた、そういう人愛と苦労とを知ったのです。このように私たちの体験する苦しみは自分だけのものではなく、助けてくれる人たちと共有できる、感謝すべき思い出となるのです。そういう助け助けられる苦しみの共同体こそが教会のあるべき姿なのです。
 ですから、弱さを持つことも、その弱に苦しむことも決して恥じることではなく、人に助けられることの有難さや、また人を愛することの喜びも生まれる、神様からの恵みそのものだと言えます。その苦しみの経験から私たちが愛や思いやりという多くの人生の賜物を得ることが出来るとしたら、もはや耐えられない苦しみも悩みも人生にはないのではないでしょうか。誰よりも先ずイエス様が私たちの弱さ苦しみを知り抜き、負って、共に歩んで下さる、その愛を知っているのですから。
(2019年10月13日週報より)