2019年9月29日

神の前に豊かになる
 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。
                (ルカによる福音書12章34節)

 富というものは、たんに物が豊かにあることを意味するだけではありません。それが自分にとって意味のあるものかどうか、それを何のために持っているのか、使うのかということが、富を所有していることの本来の目的なのだと言えます。ある人が「自分の外にある知識は、本当の自分の知識ではない」ということを言っていました。つまり、学校で講義のノートを取っても、そのノートに書き記したことが自分の中にきちんと納まっていなければ、それは自分の知識にはならないということです。しかし反対に、たとえノートを取らなくても、自分の体で覚えたことは言葉や文字で覚える以上に、自分の中に経験として蓄えられていくことがあります。失敗して恥をかいた経験や、人に迷惑をかけ顔向けできなくなったこととか、そのような思い返すと顔から火の出るような苦い思い出がいつまでも心に残るものですが、それも考えてみれば自分の人生の中の成長過程の一齣一々なのであり、それが自分を人として豊かに育てる契機となっていた事に気づかされることもあります。
 イエス様のたとえ話に、自分の倉に「これから先何年も生きて行くだけの蓄え」が出来たと喜んだ人が、その日の内に命を失ってしまう、というお話があります。それは「神の前に豊かにならない者」の例として語られているものですが、現代の私たちも老後の年金問題とか認知症の問題とか、先々の不安や思い煩いに囚われ、ますます自分の人生を貧しくしてしまっているのではないでしょうか?真実の富とは「盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない」心の倉にこそ納められているということなのです。「神の前に豊かになる」ということは、自分のための財産に執着する、すなわち自分の外側にある倉に蓄える富を頼ることではなく、自分の内側にある「心の倉」に、すなわち自分の生きてきた日々、自分が経験してきた出来事を通して蓄えられた様々な事柄によって満たされることではないでしょうか?
 私の大好きなミステリー小説家に横溝正史という人がいますが、この人は結核療養のために療養生活を余儀なくされたり、戦争中は軍部によって自分の書いた小説が大幅に削除されたり、また空襲を逃れて都会から田舎の村に疎開せざる得ないという経験をした人でした。しかし、そういう逆境の中で、目にしたもの耳にした話を自分の小説の題材に使えるという気持ちで周りの人たちと交流していったそうです。それが、戦後になり自由に執筆が出来るようになった時、それまでため込んできたアイデアを爆発させるように数々の作品を産み出し、それが今にいたるまでミステリーファンに読み継がれるものとなっているのです。
 私たちにとって、真実に豊かに生きることとは、自分の人生に自分にしか出来ない、自分が生きることで周りを豊かに出来る何かを持つこと、それを自由に用いて他の人を助け喜ばせる生き方を知ることではないでしょうか。そういう心に蓄えた財産、キリスト者ならば聖書の御言葉によって養われる信仰を、他の人、周りの誰かのために用いその人の人生をも豊かにする、そのような愛に生きて行くことが、本当に「神の前に豊かに」生きることではないでしょうか。
(2019年9月29日週報より)