2019年9月15日

権威ある言葉
 群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。(マタイによる福音書7章28~29節)
                
 「権威ある言葉」とはどのような言葉でしょうか?それは権力者や政治家のような力のある人が語る、多くの人を強制的に動かす影響力のある言葉なのでしょうか?それが命令とか号令であれば、確かにその言葉に従わなければ自分の立場が危うくなる、いやでも従わなければならない、そのような強い力となります。しかし、それは「律法学者」のように、こうしろああしろと指示や命令によって、民衆を自分たちの思う方向へと動かしていく、それに外れる人間は罪人として裁き切り捨てる一方的な押し付けの言葉に過ぎません。そうではなく、イエス様が語られた言葉は、その言葉を聞いた人が自らそのようにしたい、自分から積極的に従っていこうと思えわされる、そういう「権威」を持つ言葉であったのです。
 それはイエス様ご自身が、神様の御言葉に自ら従っていった、そのような信仰によって歩む方だったからにほかなりません。イエス様は自ら人々に教えられた言葉通りに、自分も忠実にその教えを実行し、模範となられたのでした。そのような自分自身が責任を負って御言葉を実践された方だったからこそ、その言葉に真実の権威を人々は感じ取ったのだと思います。
 私の叔父の一人に、かなりいい加減な生き方をした人がいました。大学を自分のわがままで中退し、その後も仕事を転々とし、いつもお酒に酔っ払っているような姿しか見せない「だらしない叔父さん」だと私は思っていました。ただ、何となく憎めないところのある叔父でありました。普段、そういうだらしない姿しか見たことのない叔父さんが、ある日、私の所へ来てこんなことを言ったのです。「叔父さんは、大学の先輩で有名な俳優になった人がいて、その人に憧れ俳優になろうと思って大学を中途で辞めたんだ。けれど、結局俳優にもなれず、かと言ってこんな中途半端で大学を中退したような人間はどこへ行っても信用されないし、一人前に見てくれないんだ。君はこんな俺みたいになりたいかい?」と。実はその時、私は大学を留年していて、さらに2度目の留年が決定的になっていたのです。そんな状況の中で「もうつまらない大学生活をやめて、自分の好きなように生きたい」という半ば自暴自棄の気持ちで、両親にも大学中退を宣言したのです。その話を聞いた叔父が、私にそのような自分の過去をあからさまに言って聞かせ「俺みたいになりたいか」と訊いたのでした。私はその叔父の顔を見つめ「ああ、叔父さんみたいにはなりたくない」と瞬間的に思ったのです。両親がいくら言っても変わらなかった大学中退の気持ちが、その叔父の一言で木端微塵にされ、私は大学に戻り何とか卒業までこぎつけ、今に至っているのです。
 この叔父の一言は、自分が後悔してもしきれない過去の失敗の痛みをもって、甥の私に同じ轍は踏ませたくないという愛から語ってくれた言葉でした。そのような言葉であったからこそ、私には何よりも重い「権威ある言葉」として響いたのです。イエス様の言葉も、私たちのために十字架の痛みと苦しみを負ってくださった、その愛の重さを通し語りかけられる、私たちにとって真に権威ある御言葉なのです
(2019年9月15日週報より)