2019年8月25日

誰とも違い、誰とも結び合える
 わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。(ローマの信徒への手紙12章5節)
                
 私が学生時代にお世話になった東京の下町の教会には、二代続けて非常に風変りな牧師がいました。一人は中森幾之進という牧師で、この方はその教会のある地域に多くの野宿労働者がいる、そしてその人たちは教会に来たくても来られない状況にあることを知って、自ら教会の外に飛び出て、労働者の一人となって働き、その野宿労働者のための伝道所を立ち上げる働きをした人です。その中森牧師の後に戸村正博という牧師がその教会にやってきました。その方は、当時、靖国神社の問題に取り組み、首相が靖国神社に参拝した時など、街頭デモの先頭に立ち反対表明をするような人でした。その戸村牧師も、野宿労働者の姿を見て、自らが日雇い労働に出かけて、その人たちの気持ちを理解するために苦心されるようになりました。 その戸村牧師は日曜日には教会の牧師として礼拝を守り、その日以外は日雇いに出るという姿勢を守り続けていました。
 傍から見れば、この二人の牧師は型破りな点で、同じような生き方をしていると思われる人たちでしたが、ある時、戸村牧師が中森牧師について次のような言葉を語ったことがありました。「私と中森先生とは、180度どころか359度違っています。でも、その差はたったの1度に過ぎません」と。一見、何を言っているのか分からないような言葉ですが、確かに中森牧師と戸村牧師は牧師としての説教スタイルも生き方も全く違っていた人たちでした。しかしその違いが余りにも違い過ぎて、逆に最も近しいものになっていたという自覚を戸村牧師は言いたかったのかも知れません。
 考えてみると、私たち教会の群れは、常に違いを持つ同士の集まりであって、誰一人同じ人間はおらず、またそれ故に誰一人必要とされない人間もいない、そのような群れなのではないでしょうか?そして、その違いは決してマイナスなのではなく、むしろ違っているからこそ互いに他者をカバーし合える、プラスに働く違いなのだということです。「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」と聖書は記しています。つまり、私たち一人一々が個性的であってこそ、教会を一つの体のように、生き生きと、他のどこにもない、互いの違いを生かし合う共同体へと形づくっていけるということなのです。
 そう信じる時、私たちは他の誰とも359度違っていて良いのだと自覚出来ます。その違いはイエス様を中心にして描く同心円上の弧の一部なのですから。360度展開する教会の輪の中にあって、それぞれが1度ずつ違っている、そして誰とも違う賜物をもってその個性を他者のために生かしていける、それが教会の群れを主の愛が満ち溢れる体にしていく秘訣なのです。その教会の群れに属する一人一々は、自分自身の弱さも欠けも、イエス様に固く結び合わされ他者と深い絆を築くための、自分にしか与えられていない個性として喜び受け入れていけるのです。誰とも違い、また誰とも結び合える、そのような教会でありたいと心より願います。(2019年8月25日週報より)