2019年8月18日

真に幸いな者
 あなたがたが見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。(ルカによる福音書10章23~24節)
                
 3年前の夏、夫婦で上高地まで出かけた帰り、高速道路のパーキングとしては一番標高の高い所にある松の木峠のパーキングで休憩しました。車から降りて、もう夜も更けていましたが、空を見上げるといくつもの星がキラキラと輝いていました。連れ合いの圭子は星を撮影するためカメラのセッティングをしていましたが、私はボケーッと夜空を眺めながら「これで流れ星でも見られたら最高だな」と思ったその瞬間、視線の先にサーッと光の筋が走ったのです。「アッ、流れ星だ」と口に出すと、圭子が「エッ、どこどこ?」とカメラから目を上げましたが、もうすでに流れ星は去った後でした。私は自分だけが流れ星を見られたことに嬉しくなりましたが、圭子は見逃したことが余程口惜しかったのか「あなた、ちゃんと流れ星にお願いしたの?髪の毛がフサフサになるようにって」そういうことを言うのです。私は「そんなこと言うわけないだろ。大体こっちが言う前に流れ星は流れちゃうんだから」と言い返したのですが、まさに不毛な夫婦の会話でありました。
 確かに流れ星はアッという間に流れ去って、願いを言う暇もありません。また、本来流れ星はこっちが見たいと思ってもなかなか見ることの出来ない自然現象なのです。しかし、後で考えたら私の願いは叶えられていたのだと思いました。なぜなら、あの時「流れ星が流れたら最高だな」と思った瞬間に目の前に流れ星が流れたのですから。流れ星を見たいと思った瞬間に見ることが出来るという経験は滅多にあることではないでしょう。それは一つの小さな奇跡の経験だったと言えます。
 しかし、信仰においては私たちは常にそのような奇跡を経験し続けているということも事実ではないでしょうか。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ」この言葉はまさしく、教会の十字架をいつも見上げ、福音の言葉を常に聖書から聞かされている私たち一人一々に向かって語りかけられている言葉なのです。どんなに権力を持つ者であっても、どれほど知識や知恵に溢れた人であっても、自分から神様のことを知ることも見ることも、その言葉を聞くことも出来ません。ただ、神様がご自身から私たちに示して下さることがなければ絶対に「見ることも聞くことも出来ない」ことなのです。「これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子のような者にお示しになりました。」ルカ10:21。
 私たちが無知であっても無力であっても、神の御子がその一人一々のためにこの世に来られ、その御子の命をもって私たちすべての罪も痛みも苦しみも担い贖ってくださった。その福音の出来事を見た者、聞いた者として、私たちはこの世の権力者、この世の賢者より、はるかに力に満ち知恵に満ち溢れている者なのです。その私たちを通して、福音を広め続けて下さる主に、人生を献げ歩み続ける者こそ、どんな困難な現実を目の前にしてもイエス様から「幸いな目」を持つ者と祝福されているその御言葉に自分自身の本当の存在意義を見いだし、この世の暗闇の中において星のように輝き続ける喜びに生きて行ける、真に幸いな者と呼ばれるのです。
(2019年8月18日週報より)