2019年8月11日

自分の目の中の丸太
 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。(マタイによる福音書7章3~4節)
                
 ある人が、偽善者というのは「他人にあてはめるルールを、自分にはあてはめない人間」だと定義しています。つまり、自分が他人に向かって「あなたは間違っている」と指摘する、その厳しい目を自分には全く向けようとしない、そういう人が偽善者なのだということです。先週、アメリカのテキサス州でヒスパニック系の移民を狙った銃乱射事件が起こり、20人の命が奪われ26人の負傷者が出たことに対し、アメリカ大統領が「この国に憎悪はふさわしくない。終わらせなければならない」と語ったという報道がありました。その大統領に向かって「あなたの日頃の移民排斥の発言と、反移民を訴えて事件を起こした犯人の犯行声明とどう違うのか」というメディアの質問があったといいますが、大統領は無視したということです。このように、自分は除外して他人に対してだけ「憎しみは良くない」と説いたところで、どれほどの説得力を持つでしょうか?
 また、愛知県で開かれた「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展」に出品された慰安婦の少女像を巡って、多くの抗議や脅迫メールが主催者側に送り付けられたために、その企画展が3日で中止に追い込まれるという事件も起きました。前日にも、名古屋市長がこのような展示は「日本人の心を踏みにじるもの」だとして中止を求めたということです。市長が発言したことと、「ガソリンを散布する」と脅迫メールを送った人物と、どこがどうどう違うのでしょうか?その両者の考えの根底には「自分たちを不快にさせるような表現は許さない」という自分の価値観、自分の正義を他者に押し付けるという、共通した姿勢があるように思えてなりません。
 このように現代の社会は、自分を除外し、他人を責め裁くことによってのみ自己正当化をはかる人たちが増え広がっているという現実があります。本当は自分の目の中に大きな丸太があるのに、他人の目のおが屑ばかりを問題にするような、本来自分自身が問題にしなければならない自己の欠点を、すべて無いように思い込む、それが人間を自ら偽善者へと変えてしまう道なのです。
 ある落語の名人が次のような言葉を残しています「人間というのは自惚れがあるから、自分より噺が下手だと他人を見くびっている時は、自分も相手とは同じくらい下手だということです。また、自分と同じくらいに噺が上手いと思う相手がいたら、その相手は自分よりももっと噺が上手いということです。そして、こいつは自分より上手い噺をすると思ったら、それは自分なんかとても敵わない相手なんだということなんです。」。私たちは、自分自身が何者なのかを自分の秤で量ることは出来ません。イエス様から「自惚れ」や「自己正当化」という大きな丸太を取り除いてもらわなければ、他人を批判したり、否定するどころか、自分のことさえ分からないのです。そのイエス様の愛によって、まず自分が赦されているという事実に気づいてこそ、私たちは互いに謙虚に相手の言葉に耳を傾けることが出来るのです。
(2019年8月11日週報より)