2019年7月28日

毒麦の中で成長する麦
 主人は言った。『いや、毒麦を集める時、麦まで一緒に抜くかも知れない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。・・・』(マタイによる福音書13章29~30節)

 イエス様の「毒麦」のたとえ話では、麦畑に敵が毒麦の種を蒔いていったため、その毒麦が芽を出してきたことを知った畑の持ち主の僕が「行って抜き集めましょう」と進言する場面が出てきます。最近、凶悪事件が多発し、まさしく私たち人間の社会の中に「毒麦」のような存在があちらこちらに出現し始めているという恐れを感じざるを得ません。川崎の児童殺傷事件の犯人が、長い間「ひきこもり」であったという報道を聞くと、そのような「ひきこもり」になっている人間は、皆どこかの施設に集めて監視しなければならないのではないか、という思いを持つ人も多く出てきます。また、京都のアニメーション会社に押し入りガソリンを撒いて放し、34人もの人の命を奪った犯人は、いわゆる精神的な病を持つ社会不適応者という人間であったかのように言われています。そういう人がしばしば凶悪な事件を起こす、ならばそういう危険な存在は前もって隔離しておくべきではないか、という意見を持つ人も決して少なくはありません。「毒麦」のたとえ話の僕のように、危険なもの、社会に害のある存在はいち早く抜き取り排除したいと考えるのが、私たちの卒直な思いであるからです。
 しかし、たとえ話の畑の持ち主は、その毒麦の中に麦が隠れてしまっていることを案じて、麦と毒麦を一緒に抜かないよう僕に言いつけたのです。これは、毒麦をいち早く排除しようと焦る余り、麦まで抜いてしまうことを危ぶんだ畑の持ち主の賢明な示唆であります。「ひきこもり」の人や精神的なハンディを持つ人を、一方的に犯罪傾向の強い存在と決めつけて排除すべきだと結論することは、このたとえ話の僕のように「麦も毒麦も一緒に抜く」危険を冒すことと同じであると言えるでしょう。よくよく考えてみれば、この社会で起きる犯罪は、そのような世間から「ひきこもり」「社会不適応」と見られる人たちよりも、常識人であると自負する一般の社会人の起こす事件の方がはるかに多いということに気付かされるのではないでしょうか。
 また、そのようにある人を「毒麦」のように危険視し排除しようとするその私たちの側にこそ、自分を「善悪の判断者」にして、自分の一方的な判断によって人を裁く「毒麦」が生い茂っていることを恐れなければなりません。私たちは自分自身さえも、言葉や行いにおいて人を差別し傷つけている、その自覚が生じる時、「自分は毒麦のように抜き去られる存在ではないか」という自己否定的な思いに陥るでしょう。しかし、そのような私たちをイエス様は毒麦とは決めつけず、むしろ「隠れた麦」として成長することを待っておられるのです。
 その主の愛を受けている者として、私たちも他者を一方的に切り捨てることの危うさを戒め、日々、自分の内に起こる罪の思いを一つ一つイエス様の御言葉の鋏で刈り取りつつ、どんな人に対しても、主の愛と恵みが太陽の光のごとく、植物の成長を促す雨のごとく誰にでも注がれていることを証しし続けていきたいと願います。
(2019年7月28日の週報より)