2019年6月30日

神の国を熱望しつつ
 畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。(マタイによる福音書13章44節)
                
 落語に「猫の皿」というお話があります。ある目利きの骨董屋が、立ち寄った茶店で猫がエサを食べている皿を見たら、なんと稀に見る名品で、これを売ったら300両にもなるというものだったのです。そこで骨董屋は茶店の主人に、自分の家の猫が死んで女房が悲しんでいるから、ここの猫を売ってくれないかと持ちかけ、承知した主人に3両のお金を手渡しました。そして「家に帰るまで猫にエサをやるための皿がいる。猫も自分の慣れた皿からなら食べやすいだろう」と言って、その皿を持って行こうとしたところ、店の主人がこう言いました。「いやそれは困ります。その皿は稀に見る名品で、売れば300両にはなるものですから」。骨董屋はそれを聞いて「なんだ、知っていたのか。じゃあなぜこんな高い皿で猫にエサをやってるんだ」と訊くと、主人がこう答えます。「いえね、この皿で猫にエサをやると、時々猫が3両で売れるんで」。
 目利きの骨董屋より茶店の主人の方が1枚も2枚も上手だったというオチですが、イエス様のたとえ話に出てくる人も、畑の中に宝を発見するのですがそれを隠したまま、全財産を売り払った代価で畑をまるごと買う、つまり猫をだしにして効果な皿を手にいれようとするようなやりかたをしています。しかし、イエス様は、このように人の無知につけこんで多大な利益を得るやり方を指南しているわけではありません。このたとえ話によってイエス様が伝えようとされたことは、真実に価値あるものは人目にはつかない隠れた所にある、ということなのです。そして、それを見つけた人は、自分の持っているものすべてを犠牲にしても、それを手に入れることを惜しまないということなのです。
 これはイエス様が神の国のたとえとして語られたお話の一つなのですが、神の国を発見した者は、もはや自分のこの世の地位や名誉や財産よりも、はるかに価値ある大切なものとして見上げ、自分のすべてを捨ててでも入ろうと願う、それほどのものだということを教えるお話であります。先日、来年の東京オリンピックの観覧券の抽選発表が行われ、多くの人がその当落に一喜一憂したというニュースがありました。オリンピックの試合をじかにその目で見たいと願う人にとって、そのチケット1枚でも手に入れることが出来たら、それは何十万円はらってでも惜しくはないと思える、それほど熱望できるものなのでしょう。
 それほどの熱望を神の国に対して持つことが出来る人こそが信仰に生きる者なのだということを、あらためて思い起こさせられます。私たちの日常は、自分の財産が増えたか減ったか、自分の地位が上がったか下がったかで一喜一憂するような毎日ですが、たとえこの世での自分の立場や持ち物の多寡がどうであれ、すでにイエス様が十字架にかかってまで救ってくださった私たち人間の命ほど価値高いものはなく、イエス様の復活により私たちに与えられた神の国への入場券を手に入れること以上に喜びに満ちた出来事はないのです。その神の国を発見した者として、私たちは最上の喜びをもって、熱望する神の国の福音を宣べ伝え続けましょう。
(2019年6月30日の週報より)