2019年6月16日

主を試してはならない
 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。
                (ルカによる福音書4章12節)

 イエス様が荒野で悪魔の誘惑を受けた時、悪魔はイエス様を神殿の端に立たせ、そこから飛び降りても神の子ならば天使が来てお前の足を支えるだろう、そのように誘ったとあります。それに対しイエス様が答えたのが上記の「主を試してはならない」という言葉でした。もともと、この言葉は旧約聖書の申命記6章16節の「あなたたちがマサにいたときしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」というモーセの勧告を引用したものでした。マサという地名は、イスラエルが荒れ野の旅の途中、飲み水に窮してモーセに対し「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。渇きで殺すためか」と不満の声を挙げたことに由来する「試す」という意味を持つ地名です。つまり、イスラエルが神様によってエジプトから約束の地カナンに向かう旅の中で、神様の自分たちに対する愛を疑い、旅の苦しさの余り不満を訴えた、そのことが「主を試す」ようなことであったというのです。
 試すということは、たんに疑うこととは違います。自分に対し相手がどんな気持ちを抱いているのか、それを確かめるために挑発的行動をとることが「試す」という言葉の意味でしょう。落語にこのようなお話があります。いつも夫婦げんかをしては大家さんの所に泣きついてくるおかみさんがいました。大家さんは毎度のことなので「もう、そんな亭主なら別れてしまえ」と言うと「でも、あの人だって良いところもあるんです」と今度は亭主をかばい始めるのです。「じゃあ、どうしたんだい」と訊くと、「うちの人があたしのことをどう思っているのか知りたい」とおかみさんが言うので「だったら亭主の大事にしている骨董の茶碗を、転んだふりをして割ってごらん。その時に、亭主がお前の体の心配をしてくれるならお前さんを大切に思っている証拠だ。しかし、先に茶碗の心配をするようだったら、もう駄目だ。別れちまいなさい」そう大家さんは勧めました。そうしたら、おかみさんがこう言いました。「じゃあ、大家さん。わたしが家に帰る前に亭主のところに行って『今からお前の女房が、お前の大事にしている茶碗を転んだふりして割るから、茶碗のことより先に女房の体のことを心配しろ』そう言っておいてください」
 これじゃあ何にもならないというお話ですが、とにかく試すということは自分をどう思っているか、その相手の愛情の度合いを測るための手段です。イエス様は悪魔から「神の子なら、神殿から飛び降りてもかならず神様が天使を送って助ける」という誘い掛けを受けた時「主を試してはならない」と神様の愛の度合いを測ることを拒んだのです。それは、親の愛に全面的信頼を置き、その手に体全体を預けて眠っている幼子のような信仰の姿勢です。それほどに神様の愛を信じる時、その愛の重さのまえでは、自分がどれほど弱く無力であっても、そのような人間的な条件によって神様の心は動かない、ただ私たちの主であるがゆえに私たち一人一々を決して見捨てることはない方であると告白出来るのです。神の御子イエス様が私たちの罪をすべて贖うために十字架にかかってくださった、そのこと以上に神様が私たちを価値ある存在として大切に思って下さるしるしは他にないのですから。
(2019年6月16日の週報より)