2019年6月9日

知恵ある者となるため愚かになる
 自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。(コリントの信徒への手紙Ⅰ 3章18節)

 ある喜劇役者の人が、知り合いの女優さんにこういう話をしたそうです。「花咲かじいさんの話は知っているだろ?正直じいさんが飼い犬のポチがワンワン鳴くので、そこを掘ったら宝物がザクザク出てきた。それを見ていた意地悪じいさんがポチを借りて、そのポチがワンワン鳴くところを掘ったら、ガラクタやゴミばかりがゴロゴロ出てきた。そこで怒った意地悪じいさんがポチのしっぽを捕まえて振り回しはじめた。それでたまらなくなったポチがじいさんに「はなさんかじいさん、はなさんかじいさん・・・はなさかじいさん、花咲かじいさん」と言ったんだ。」その話を聞いた女優さんは、なんて面白い話し方をするんだろうと関心して、自分も真似をしてその話をしようとしたところ、どうしても最後の台詞が可笑しくて、笑ってしまい上手く話せない。すると喜劇役者さんがこう言ったそうです。「本当に人を笑わせる話をする時は、自分が笑っちゃ駄目なんだ。真剣な顔で話をするんだよ」と。
  これほどバカバカしい話を、真剣な顔で話せる喜劇役者というのはすごいなと思わせるエピソードです。おそらく、こういう人を笑わせようとする人は、しょっちゅう頭の中で人を喜ばせるネタを考えているのでしょう。誰もが知っている昔話の内容も、あれやこれや話をふくらませてアレンジし、そういう笑える話にしていくために真剣に取り組み、そして、その話のネタを見つけた時は何よりもの喜びを感じるのでしょう。私たちが聖書を読む時も、それがすでに何度も読み返したお話であっても、その中に常に新しい発見があると信じ、まるで初めて読むようなつもりで取り組むなら、思いもかけない新たなメッセージを見つけられることがあるのです。
 初代教会の使徒パウロは「本当に知恵のある者となるために愚かな者に」なれと説いています。それは聖書の御言葉を「もうすでに聞いた、知っている言葉」としてではなく、全く知らなかった言葉として初めて聞くかのように聞きなさいという勧めではないでしょうか?私たちが何かを「知っているつもり」になっている時には、どんな素晴らしいメッセージも喜ばしい福音も、すでに過去のアルバムの中の色褪せた写真程度にしか感じられなくなってしまっていることが多いのです。しかし、その「すでに知っている」と思っている話でも、それをまた自分なりに角度を変えて読む時、自分自身の今の生き方に新たな道しるべとなる言葉が浮かび上がってきたりすることもあるのです。
 信仰とは、すでに自分が知っている知識や経験に頼ることではなく、今の自分に新たに呼びかけられる主の言葉を「初めて聞く」者のように聞き、今まで知らなかった言葉として聖書のメッセージを受けとめる姿勢なのです。それはまた、新しいネタを発見して喜んで人に話す喜劇役者さんのように、自分にとって新たな喜びとなる福音の言葉を見出し、その喜びを一人でも多くの人に知らせたいと願う人に、神様が常に御言葉を通して与えてくださる伝道の力であり神様の知恵なのです。