2019年5月12日

主の愛に留まる
 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛に留まりなさい。   (ヨハネによる福音書15章9節)

 イエス様は弟子たちに「わたしの愛に留まりなさい」と命じられました。留まるということは、何か特別な働きをするとか、イエス様のように完全な人間になるとかいうことではなく、ただ「そこに居なさい」という単純な命令です。しかし、その単純な命令は、決してたやすく従えるものではありません。親が子どもに「そこで待っていなさい」と言いつけて、他の場所へ行ってしまった場合、子どもはなかなか帰って来ない親を捜しにその場を離れ、かえって迷子になることもしばしばあります。私たち人間はその子どものように、自分が行きたい所へ行く、その自由を制限されることには耐えられない、留まれと命じられても、焦りや不安からその命令に背いてしまうことがあるのです。何もしないでじっとしていることは、苦痛に思えるのです。
 私が牧師になるために入った神学校は、全校で30名たらずの学生しかいない「日本で一番小さな大学」という奇妙なキャッチフレーズで大学案内に紹介されていた学校でした。私が入学した当初、1年生は私ともう一人の女性との2人だけでした。ところが学年途中で、その女性が学校を辞めてしまい、1年生の講義は私一人だけが受けることになってしまったのです。教師と学生が1対1で広い教室で顔を向き合わせる、そういう時間が私にはとても長く苦痛に感じられたものです。しかし、私が休むとその講義は中止になってしまうわけですから、ほとんど義務感だけで毎日電車で2時間近くかかる家と学校との間を往復することになりました。ところが、ある日、教室に入ってみると、先生の姿がありませんでした。しばらく、待っていましたが一向に先生はやってきません。30分、40分と時間が経過し、今日は来ないのかと腰を上げかけましたが、休講の知らせもなかったし、もし私が教室を出た後で先生が来たらと思うと、そこに留まらざるを得ませんでした。1時間くらいしたところで、先生が教室に飛び込んで来て「いや、悪い悪い、今日講義があることをすっかり忘れていた。待たせたけれどもう時間もないから、食堂で卓球でもしようか」と言って、その日は講義もせず、2人で卓球をする羽目になったのです。
 一体、あの待っていた1時間は何だったのかと腹も立ちましたが、考えてみると、1時間も遅れたのに、まだ学生が待っていると信じて教室に駆け付けた先生も大変人の良すぎる人だったなぁ、と今では懐かしく思えます。「わたしの愛に留まれ」と命じられるイエス様は、私たち一人一々のために、最も良いものを与えてくださるため、永遠の命の喜びをこの世界にもtsらしてくださるため、再びやって来られる方なのです。その主の愛に留まることは、決してたやすいことではないでしょう。もっと自分に良い所があるのではないかと、その場を離れてしまいやすい私たちです。しかし、「留まれ」と命じてくださった方は、私たちの救いのため命を献げて十字架にかかってくださったイエス様以外の何者でもない、そのことを思う時、私たちは人生をイエス様との再会のため1対1の関係で待つ、これ以上に贅沢な時はない時として喜びと感謝をもって生きていけるのではないでしょうか。(2019年5月12日 週報より)