2019年4月28日

「しか」ではなく「なら」で生きる
上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 (コロサイの信徒への手紙3章2~3節)

 初代教会の使徒パウロは、「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている」と人々に語りかけました。イエス様を信じ、イエス様の十字架による罪の贖いとイエス様の復活による永遠の命の約束を与えられた者は、すでに一度「自分に死んだ」人間なのだと言うのです。
 私の若い時からの知人で、大変エネルギッシュで活動的な人がいますが、彼がある時「この頃、仕事が遅くなった」とこぼすのを聞き驚いたことがあります。その人は学生時代からスポーツも勉強も器用に上手くこなす人で、不器用で何につけてもグズグズしてはかどらない私にとっては、羨ましい限りの人だったのです。その彼がそんな弱音を吐くとは思いもしなかったのでした。しかし、そのように若い時から何に対しても積極的に取り組んで、仕事もスピィディーにこなしていた彼も、自分が年を取って仕事の進み具合が前よりも遅くなってしまったことを嘆いていたのです。確かに誰でも年齢を重ねていけば、以前のように体も心も上手く思い通りにならなくなる、そのことを実感させられます。そして、そのように「ああ、自分はもう、あれも出来ない、これも駄目になった」と呟く時が来ることを、私たちの誰も止めることは出来ません。しかし、その自分の体や心の衰えを嘆くことで、自分の人生が終わってしまったかのようにあきらめてしまう、そのことをパウロは「地上のものに心を引かれ」ている状態だと言うのです。そして、そのような衰え行く自分を嘆く人生は、すでにキリストの十字架によって終わった「あなたがたは死んだ」と告げているのです。
 あるフリースクールでは「しか」ではなく「なら」で生徒を評価するという方針を取っているということです。まるで奈良の町にたくさんいる鹿の群れを連想させる言葉ですが、それは生徒一人一々の可能性を大切にするという姿勢を意味するものなのです。算数の苦手な子に対し「あの子は足し算しか出来ない」と言うのではなく「あの子は足し算なら出来る」と前向きに評価することが、その生徒の可能性を伸ばすことになるわけです。
 私たちが自分自身の無力さを覚える時「自分には何も出来ない。祈ることしか出来ない」と呟くことが多くなります。しかし、そのような時に「自分には何も出来ないが、祈ることなら出来る」と言えるとしたら、その言葉こそが私たちに新たな力を与える源となるのではないでしょうか。「上にあるもの」すなわち復活して今天におられ、やがて御国を私たちにくださるため天から再び来られるイエス様に心を留めるならば、私たちの本当の命はそのイエス様と共に神様の御手の内にあって生かされ守られているのだということです。私たちはもはや自分の限界の内に嘆くのではなく、復活の主と共にこの世界の救いのため「祈ることなら出来る」一人一々として、どんな時も主の救いの喜びを伝えて行く使者として生きる者なのです。  (2019年4月28日週報より)