2019年4月14日

責任を負ってくださる主
すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」 (ルカによる福音書19章39~40節)

 本日は棕梠の主日と呼ばれる日曜日です。イエス様が十字架にかかるためエルサレムの都に入っていった、その時にイエス様の来訪を喜ぶ人々が棕梠の枝を道に敷いて歓呼の声で迎えた、と言います。しかし、そのような歓呼の声を上げてイエス様を迎える人々を見て「先生、お弟子たちを叱ってください」と言うファリサイ派の人の声もあった、とルカ福音書は記しています。この熱狂的な歓呼の声が、当時、民衆の指導的立場にあったファリサイ派の人々には不穏なものとして響いたということです。
 彼らにとって、イエス様は律法の教えとは違う教えを宣べ伝える異端者として映っていました。しかも困ったことに、民衆はそのイエス様の教えに心惹かれ、熱狂的にイエス様を歓迎する風潮が高まっていたのです。そういう民衆の熱狂的行動を抑えつけるために、ファリサイ派の人はイエス様に「お弟子たちを叱って下さい」と要求したのでした。暗に「あなたがこれ以上民衆をそそのかし、騒ぎを大きくするならば、あなた自身がその責任をとらなければならなくなる。そうなっても良いのか」という含みのある言葉でイエス様に迫ったのだと言えるでしょう。
 そのファリサイ派の要求に対し、イエス様はこう答えたとあります。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」と。まるで、地下のマグマの噴出を抑えようとして火口を塞いでも、もっと別の所からガスが噴き出し溶岩が流れ出てしまうように、人間の心から湧き出る声はどんな力によっても抑えつけることはできないのだ、とイエス様はおっしゃられたのでしょう。そして、そのことの責任はイエス様御自分ですべて背負う、そのような覚悟で言われたことなのであります。
 最近「忖度」発言や「復興以上に大事」という失言によって大臣や副大臣が辞職する、というか辞めさせられる事件が相次ぎましたが、本来、そのような人たちを任命した側の責任は余り問われることなく「ああ、またか」と私たちの中に政治に対する不信と不満が残る結果となっています。責任を取るべき人間が、その責任を下の者に押し付け、自分は一つも傷を負わない、そういう人間関係の中ではいつも弱い立場の人が黙らされ、切り捨てられていきます。しかし、イエス様はその弱い立場の人々の発するどのような声も叫びも、たとえそれが御自分の身に火の粉がふりかかる結果になろうとも、その一人一々の声を聞かれ、またその声に全責任を負って答えてくださる方であります。
 イエス様はエルサレムに入り、数日にして捕えられ十字架にかけられる、その運命を目の前にして、しかし、本当に人々の救いのためにご自身が十字架を背負う、そういうすべての人への大きな愛の責任を果たすことを決断しておられたのです。その愛を宣べ伝える私たちの信仰の声を、誰も黙らすことは出来ないのです。  (2019年4月14日週報より)