2019年3月31日

イエス様に目を留められて
イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。・・・」(マルコによる福音書12章43節)

 エルサレム神に備え付けられていた賽銭箱に、多くの人がお金を投げ入れている中、ある一人の貧しいやもめが、最も価値の低いレプトン銅貨2枚を入れる姿がイエス様の目に留まったと福音書は描いています。彼女は貧しい生活費をすべて献げたのでした。イエス様はそのやもめの貧しい献金を「だれよりもたくさん入れた」と評価されたのでした。
 持っているものすべてを献げることは義務や強制ですることではありません。別の福音書の物語では、ある金持ちの人がイエス様に「何をすれば永遠の命を得られるか?」と問うた時、イエス様は「持っている物を売り払い、貧しい人々に施せ」と言われたとあります。その言葉に金持ちの人は従うことが出来ませんでした。義務や命令で、自分の持っている物をすべて献げることなど、私たち人間には不可能なことなのです。もし出来る人がいるとするならば、その人は自分の持っているもの以上の存在を信じ、それが自分にとって永遠の存在であると知り、その永遠の存在が自分に目を留めてくれている、そのことを何よりも喜びとして生きて行ける人でしょう。
 今日本ではあと1ヵ月で天皇の代替わりによって元号が変わるという節目を迎えます。平成という時代も30年と4か月で終わりを迎えることになるのです。しかし昭和生まれの人間には、平成の30年数か月は、決して長いとは思えないというのが事実でしょう。昭和は63年以上続いたからです。しかも戦争という時をはさんで戦前、戦後という大きな転換期があり、また高度成長期に東京オリンピック、大阪万博を経験し、バブルの時代を迎えその後の長い不況の時をすごすことになった、その激動の社会の変化を昭和生まれの人間は身をもって知っています。それと較べると、平成時代にも確かに色々な出来事はあったにせよ、それは昭和の時代の激動を知る人にはそれほど驚きに満ちたものとは言えない「束の間」の時に思えるのではないでしょうか。  
 ましてや、イエス様が十字架にかかり復活された、あの出来事から2000年もの時を数えている教会の時と較べれば、たとえ60年100年も決して驚くほどの時の長さではありません。あの十字架と復活の時に、すでに最も驚くべきことは起こっているし、また、そのことを知っている信仰者にとって、元号が変わろうと社会状況が移り変わろうとも、もはや永遠の時の中での「束の間」の出来事であり、すべては過ぎ去り忘れ去られていくものでしかありません。
 私たちは、そのような永遠の時に生かされていることを信じる時、ただ、永遠の命に復活されたイエス様に目を留められて生きていると言うその大きな喜びこそ、自分のすべてを献げ尽くしても惜しくない、何よりも驚きと希望に満ちた事柄として私たちを支え導くのです。「束の間」の時も、主イエスの愛の眼差しで見つめられていることに、私たちの人生の驚きと喜びがあるのですから。   (2019年3月31日週報より)