罪を知り、罪赦す方

罪を知り、罪赦す方
 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。(ヘブライ人への手紙4章15節)
                
 人は自分の口の中に溜まった唾は平気で呑み込むけれど、いったん、その唾を皿の上に吐き出してしまうと、もうそれを呑み込むことは出来なくなります。それと同様に、私たちは自分の中にあるものと同じものを、他者の姿に見た時、それをとても受け入れることが出来なくなるのではないでしょうか?
 あるお店の主人が庭で縁台の修理をしようとして、店の小僧さんに「お隣のお店の御主人からカナヅチを借りて来なさい」と言いつけました。そこで小僧さんが隣の店に行ってそのことを告げると、その店の主人がこう尋ねます。「カナヅチで打つのは鉄の釘か?木の釘か?」そこで小僧さんが「鉄の釘です」と答えると「鉄の釘を打つとカナヅチが減るから貸さん」と断られてしまいました。小僧さんが戻ってきてそのことを主人に告げると、主人がカンカンになってこう言います。「なんてドケチなやつだ。もうそんな奴から何も借りるな。家にあるカナヅチを持ってきなさい」。
 私たちはこの主人のように、人の嫌なところを批判しながら、実は自分が同じような嫌なところがあることに目を向けることが少ないのではないでしょうか。誰もが罪を犯す存在でありながら、ことさら他者の罪には敏感に反応し「あんな奴と一緒の空気も吸いたくない」と他者を排除し自分を正当化している、それが人間同士の間に受け入れ合い赦し合うことを不可能にする偏見差別を助長し、互いに心の壁を高く築き合う原因なのです。
 そのような人間の中にある罪を、最も良く知っておられるのがイエス様です。イエス様は「罪は犯されなかった」方ですが「罪を犯さない」ことが「罪を知らない」ということではありません。むしろ、人間の弱さ醜さ、その罪をイエス様は誰よりも良く知る方として、それ故、その人間の犯すあらゆる罪をすべてご自身の内に飲み込まれ、罪の裁きをご自身の身で贖うため、十字架にかかってくださった方なのです。
 このイエス様の前では「罪を犯すこと」と「心の中で罪の思いを持つ」ことは何ら変わりないことなのです。他者の犯す罪を断罪する人間の中にも、同じ罪の思いがあることをイエス様はご存じなのです。ただ、イエス様が私たち人間と全く違っておられる点は、人間を裁くためにその罪を知ろうとはされない、むしろ「わたしたちの弱さに同情し」罪を犯さざるを得ない私たちのため自ら他者の罪をご自身のものとして負って下さった、それほどに大きな愛をすべての人に向けられたという点なのです。だから私たちはもう、自分の中にある罪から目を背け、他者の中に自分の罪を投影し裁き合う虚しい争いから解放され、イエス様の十字架により、自分の中の罪を見つめながら、自分と同じ罪を持つ他者と受け入れ合い赦しあう道へと歩み出せるのです。自分自身の罪と向き合う時に、そこに主の十字架の愛の大きさ深さが見いだせるのですから。
(2019年3月17日週報より)