2019年3月10日

レントを迎えて
 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。(マタイによる福音書16章21節)
                
 今年もレントの季節を迎えました。イエス様がエルサレムで祭司長たちに捕えられ大祭司の屋敷で裁判を受け、死刑判決を下されてローマの役人の手で十字架に掛けられ死を迎える。その一連の出来事を思い返すのがこのレントの時であります。私たちにとって、このようなイエス様の死を思い起こすことは、決して心地よい事柄ではありません。むしろ、そのような悲惨な出来事から目を背けてしまいたくなる、それが多くの人の抱く思いではないでしょうか?
 かつて十字架の出来事をリアルに描写した映画を観ていた観客が、あまりにも残酷な場面にショックを受け、心臓麻痺を起こし死亡するという事故がありました。実際にこのような十字架の出来事が目の前で起こったら、私たち誰もがその酷い処刑場面に衝撃を受けて、命に関わる深い傷を心や体に負ってしまうのではないでしょうか?しかし、イエス様ご自身は、私たちが目を背けざるを得ない十字架の悲惨さを、御自分が担うべき運命として自覚し、そしてその運命を父なる神様の御心として引き受けられる決心をされておられたのです。
 イエス様はその十字架の運命について、弟子たちに三度予告されたと福音書は伝えています。弟子たちは、そのイエス様の受難予告を聞き、恐れと不安を抱かざるを得なかったとあります。その最初の予告の際「このときから、イエスは・・・弟子たちに打ち明け始められた」とマタイ福音書には書かれています。「このときから」というのは、一番弟子のペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白した、その直後からということでありました。つまり、イエス様はこのペトロの信仰告白を切っ掛けとして、御自分の十字架の運命に関して公に語り始めたのだと言えます。何故イエス様は、このタイミングで受難の予告をしはじめたのでしょうか?おそらく、この十字架の運命が、ペトロの告白した通りの「メシア、生ける神の子」としてご自分が受けるべきものだということを弟子たちに知らせる為であったのでしょか。そして、同時にその十字架は「三日目に復活」するための苦しみと死であることを、前もって彼らの心に刻みつけるためでもあったのだと思われます。
 確かに私たちはこのような苦しみや死の運命から目を逸らし、もっと楽で平安な人生を送りたいと願うのが本当のところであります。ただ、私たちは誰もが、その平安を奪われ不安や恐れの只中に生きざるを得なくされる、そのような時が来ることを避けることの出来ない、明日をも知れぬ身であることも真実なのです。そのような苦しみと死という誰をもが避けえない運命の中で、イエス様はご自身の身をもって「三日目に復活」するという永遠の命への道を開かれたのであります。イエス様をメシアと告白するその信仰は、告白した者の思いを超えて、その信仰者の人生を苦しみと死によって途絶えさせることなく、復活の時、永遠の命の時へと招き導くものとなるのです。その真実の喜びへと続くレントの時を覚え歩みましょう。
(2019年3月10日週報より)