ギブアップできる勇気

ギブアップできる勇気
 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って、持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。(マルコによる福音書10章21~22節)
                
 最近、ある本の中で、次のような文章に出会いました。「世の中、とかく「頑張った人」が称賛されます。それはそれで、たしかに立派だとは思います。でも、みんながみんな、頑張れる人ばかりではありません。どうしてもムリなとき、「みんなが注目している中で、ギブアップする」ことだって、とても勇気ある行動だと思うのです。」(「読むだけでHAPPYになれちゃう言葉」西沢泰夫氏著)
この文章を読んで、先週の横綱の引退表明のことを思い起こしました。日本人の横綱としてただ一人、注目や期待を集めていた稀勢の里関でしたが、けがによる休場が続き、また土俵上での連敗という横綱としては辛い立場に追い込まれての引退表明でありました。そのような、世間の注視する横綱の引退、しかも期待を裏切るような成績しか残さなかった中で現役引退という幕引きは、ご本人にとっても非常に悔しいことであったと思います。しかし、それも大変「勇気ある行動」であったことは間違いないのではないでしょうか。
 私たちはしばしば、周囲の人の期待や評価に、「自分はこうあらねばならない」と自らをその周囲の自分に対する理想像に合わせようと努力し、また現実の自分の力量以上に「頑張らなければならない」という目標を自分に課してしまうことが多いのではないでしょうか。そのような中で、自分自身を成長させることの出来る人も確かにいますが、逆にそのような無理を自分に課して精神的に追い込まれ潰れてしまう人も多くあるのです。はじめに引用した本の文章は次のように続いていました。「ギブアップなんて恥ずかしいことでもなんでもない。周りで、見ているだけの輩の言葉なんて、いっさい気にする必要はありません。」。
 イエス様に「永遠の命を得るにはどうしたらよいか」と尋ねた人にイエス様はこう答えたと福音書にあります。「持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる」と。この人は財産をたくさん持っていたために、そのイエス様の言葉に失望し、立ち去るほかはありませんでした。一見、イエス様が金持ちの人に対して無理な注文をして追い返したかのように思えるお話です。しかし、イエス様は「彼を見つめ、慈しんで」そのように言ったのです。それはイエス様が、この人の信仰の可能性に大きな期待をかけられていたということではなかったでしょうか?ただ、この人はそのイエス様の期待に応えられるほどの信仰は持っていなかったのが現実でした。彼はそのイエス様の期待に応えられなかった自分の限界に気づき「悲しみながら立ち去った」のです。このような限界を持つことが、私たち人間の真実であることに違いありません。しかし、イエス様はその期待に応えられない私たち人間の弱さをも深く理解され、慈しまれることも変わりない事実なのです。期待に応えられない自分をも主の愛からは外されていない、そのことが「ギブアップする勇気」をも信仰の中に数えてよい理由なのです。
(2019年1月20日週報より)