2018年12月16日

アドベントの旅
ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。(マタイによる福音書2章2節)

 私たちは今、アドベントの礼拝を守り、クリスマスを迎える前の4週間を過ごしつつあります。日本ではアドベントを待降節と訳します。つまりイエス様の降誕日を「待ちつつ」過ごす時であるという意味で待降節と言うのです。しかしまた、アドベントはアドベンチャー「冒険」を意味する英語の語源となっている言葉でもあります。何故「待つ」ことと「冒険」とが同じアドベントという言葉で表されているのでしょうか? 
 「待つ」といえば、子どもたちはクリスマスの夜にサンタクロースがプレゼントを持ってきてくれるのを楽しみに、その日を待っています。私の娘も、小学生の頃はサンタクロースのプレゼントを心待ちにしていました。ところが、クリスマスの朝、娘がプレゼントを見て泣き出してしまったのです。「サンタさんが間違ったプレゼントを持ってきた」と言うのです。プレゼントが欲しかったオモチャとは違うものであったということで、娘は悲しんでいたのでした。余りに泣くものですから「サンタさんも間違うことがあるんだ。欲しかったオモチャはお父さんが買ってあげる」となだめて、トイザラスまで娘を連れて行ったのでした。翌年、クリスマスの近づいた頃、娘に「今年はサンタさんに、どんなプレゼントお願いするんだい?」と尋ねたところ、何々をお願いしたと返事が返って来ました。私はその何々が、少し前、娘が欲しがっていたものとは違った答えだったので「この前に別のものが欲しかったんじゃなかったっけ?」と聞き返すと、娘はこう応えたのです。「それは、お父さんに買ってもらうからいいの」と。「!・・・」私は言葉もありませんでした。人間の欲にはきりがないものだと思い知らされた瞬間でした。確かに私たちは、自分が欲しいもの、望んでいるものがある時は、それが手に入るまでワクワクしながら待つことが出来ます。しかし、いったん望みのものが手に入った瞬間、待っていた時のワクワクする思いは消え去って、また別のものを欲しがるようになっていくのも事実でしょう。しかし、本当にクリスマスの時にこの世界に贈られた神様のプレゼントは、私たちが手に入れたいと欲しがっていたものとは全く違うものでありました。それはまた、私たちが手に入れた瞬間に色褪せ、また別のものを次から次へと欲するような、一時の満足しか与えない贈り物ではありませんでした。
 神の御子が、この世に「王」としてやってこられた、それが真実の神様からの贈り物であったのです。この時、東から占星術の学者たちが、その「王」となるべき方を探しはるばる旅をしてきた、とマタイ福音書は伝えています。彼らは全く見知らぬ国へ、ただしるしの星を見つめつつ長い旅路をたどってきた「冒険者」でありました。ただ、欲しいものを待つだけの人たちではなく、自分たちがまだ知らない見たこともない「王」を探し求めて旅をし続けたのです。私たちも、この学者たちのように、クリスマスを待つだけでなく、冒険の旅をするように、主イエスの姿を探し求め、新たな人生の旅へと旅立っていく者でありたいと願います。私たちのどんな困難な人生の中にも共におられる方としてイエス様が来て下さる、その望みの星を見上げつつ。
(2018年12月16日週報より)