2018年12月9日

クリスマスの主人公
あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。・・・
         (コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章12~13節)

 初代教会の使徒パウロは、自分が伝道し作り上げたコリント教会の中に、分裂分派の争いが起こったことを聞き、上記のような内容の手紙を書き送ったのでした。「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか」と。パウロはたとえ自分の名によって「パウロ派」を作り、パウロを神様のように祀り上げる人々に対しても、決してえこひいきすることなく、他の誰かを持ち上げ派閥を作る人々に対するのと同様、その過ちを見逃さなかったのです。あの十字架についてすべての人間の罪を贖ってくださったのは、イエス様以外の誰でもなかったのだ、とパウロは断言し、それ以外の誰かがこのイエス様の代わりになることなどあってはならない、このパウロ自身をも含めて、と強く戒めました。
 今、私たちはクリスマスを目前にして、クリスマスツリーを立てリースを飾り、御子の降誕をお祝いするための準備段階に入っています。しかし、そのクリスマスを祝うのは私たち教会の人間ばかりではありません。今や日本でも、クリスマスはきらびやかなイルミネーションの灯りが夜の町の通りを明るく照らし、讃美歌のメロディーがロマンチックな雰囲気を盛り上げる、そのような誰もが楽しみに待ち受ける年末の一大イベントとなっているのです。ただ、そこにあの十字架につけられたイエス様の姿は見受けられないという現実もあります。むしろサンタクロースがクリスマスの主要キャラクターとして認知されているのが日本の多くの人が知るクリスマスです。
 私も、保育園時代、このクリスマスの時にサンタクロースがやって来るのをワクワクしながら楽しみにしていた一人でした。そのクリスマスを保育園でもお祝いすることになり、保育園にサンタさんが来るという話を聞いた私は、家に帰り早速、母親に「今度、保育園のもサンタクロースが来るんだって」と報告しました。すると母が「そうなのよ、今年はうちのお父さんがサンタクロースになる番なの」と言ったのです。私は何と答えてよいか分からないまま「そうか、うちのお父さんがサンタになるのか」と釈然としない思いで保育園のクリスマス会に出ました。ところが、私の父はその日熱を出し家で寝込んでいました。しかし、それでも保育園にはサンタさんがやってきて、私たち子どもにプレゼントを配って帰っていきました。「あのサンタクロースは誰だったのだろう?」それが私の解けることのない謎として残ったのです。
 ただ、そのことを今思い返し考えるならば、サンタクロースにはいつでも代わりがいるということです。そのようなサンタクロースを主人公にしたクリスマスは、教会以外のどこでも誰にでも祝えるものですが、私たち教会は他の誰とも代わりのきかない方、あの十字架につけられたイエス様だけをクリスマスの主人公として迎えるのです。その誰とも代わることの出来ないイエス様を迎え祝う私たちこそが、この世界に真実の罪の赦しと神様の永遠の愛の訪れを我がこととして心の底から喜べる者とされるのです。そして、その喜びをこの世界に宣べ伝える希望に満たされるのです。
(2018年12月9日週報より)