2018年11月25日

最も小さい者こそ最も大きい
 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネによる福音書3章16~17節)

 つい先日、刑務所で開かれた教誨師の研修会に出席してきました。その研修会の講演で刑務所の所長さんが、このようなお話をされたのです。「刑務所の刑務官に必要なことは、受刑者との信頼関係です。受刑者の人権を尊重し、受刑者の相談にはどんな小さな事でも親身になって対応し、同時に、受刑者にどんな小さな規律でも守らせるため、決して甘やかさず厳しく接する。そのように厳格に勤務する刑務官に対し受刑者は畏敬の念を持ちます。そして、その刑務官を悲しませたくないと、二度と罪を犯さないことを誓うのです。」。 
 この刑務官と受刑者との関係を、イエス様と私たちとの関係にもあてはめて考えることも出来るでしょう。私たちも、刑務所には入らないまでも、日々、自己中心的な思いから出る言葉や行いにより、人を傷つけ周りに迷惑や被害を及ぼしている「罪人」であることに変わりありません。そのような罪人である私たち一人一々を救うために、神の独り子イエス様がこの世に人となって来て下さったのです。そして、刑務所の刑務官が、受刑者と同じ場所に立ち、受刑者一人一々の問題に最も深く関わり、真剣に取り組むように、イエス様はこの世の私たち人間の罪に満ちた世界に同じ人として立たれ、私たち一人一々の苦悩みをご自身の問題として担い、誰よりも深く悩み苦しみ抜かれ、十字架によって救いの御業を果たして下さいました。
 このイエス様を与えるほどに、神様は私たち一人一々を深く愛され、一人をも滅びることを惜しまれ、また時には厳しく私たちを叱り、間違った道からご自身のもとへと導かれる。そのような愛によって私たちは本当の自分の価値に気付かされ、本当に神の子とされる喜びに満たされ、神様・イエス様を悲しませるような罪を二度と犯さないと誓う者になっていけるのです。 この世界では、力のある者や大きい者、強い者がその権力によって人々を支配し、また多くの人から救世主のごとく崇められ、誰もがそのような大きな力ある者に従うことが通例です。しかしクリスマスの時に与えられた救世主のしるしは「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」というまことに小さな御子の姿であります。小さいということは、この世界では価値のないことと判断されがちのものです。落語家に柳家小三治という方がいます。この人は前座の頃は三治という名前だったそうです。それが真打になって、お師匠さんから小三治という名前を与えられたということです。ところが小三治さんは、「小」という字が三治の上についたので、自分の価値が前より下がったような気がする、もっと立派な大きい名前がほしいと文句を行ったそうです。するとお師匠さんがこう答えたといいます。「小だからいいんだ。三治の上に大をつけてみろ。大サンジ(大惨事)になっちまう。」その答えに小三治さんは「成るほど、違ぇねぇ」と納得したということです。
 小さいからこそ素晴らしいものがあるのです。この世の最も小さい者を大切にしてくださるために救い主も小さく貧しい姿で飼い葉桶に降りて来られたのです。その小さなイエス様こそ、小さな私たち一人一々に対して贈られた、神様の最も大きな愛のプレゼントなのです。
(2018年11月25日週報より)