2018年11月11日

主を待ち望む時
わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。
               (ローマの信徒への手紙8章25節)

 間もなくアドベント(待降節)の季節を迎えます。今年の夏は、異常な猛暑が連続し、秋になっても気温の下がらない日が続いていました。このまま暑さが止まないのではないかという不安も、やはり11月も迎え朝夕肌寒さを感じるようになると、やはり季節は巡りくるのだなあという安堵の気持ちへと変えられます。
 私たちは、猛暑の日々には、涼しい風が吹く日が来ることなど、どうしても信じられない思いになります。それまでがあまりにも暑すぎて、その暑さが身も心もクタクタにして、涼しい日がやってくることなど頭の隅にも思い及ばなくさせられてしまうからです。しかし、季節が巡り替わるその事実に変わりはないのです。待っていれば、かならず涼しい風が暑さに身も心も疲れ切った私たちを慰め癒してくれる、そのことをしみじみと感じることが出来る季節を迎えました。
 しかし、待つということは決して生易しいことではないことも事実ではないでしょうか?先月、シリアの武装勢力により3年以上もの間、人質とされていた日本人ジャーナリストの方が解放されるという出来事がありました。身動きも出来ないような狭い部屋に監禁され、物音一つ立てることの赦されない状況に置かれていたということで、満足な食事も与えられないという虐待を受け続けられたと言います。そのような極限状態にあって、そのジャーナリストの人は「あきらめたら試合終了」という言葉を自らに言い聞かせながら耐え続けられたと言うのです。
 自分が解放されることなど、もはやありえないと諦めてしまったら、本当に死を選ぶ以外にはないほどの地獄のような日々を、しかし「目に見えない」希望をもって生き抜かれたと方であると思います。それはたんに忍耐力があるという次元の問題ではなく、「待ち望む」目標がその人の心の内にあったからだと、言えるのではないでしょうか?ただ解放される時を「待つ」だけでなく、ジャーナリストとして自分の体験したすべてのことを、自由に語り伝えるその「希望」を持って耐え忍ぶことが出来たのだと思います。
 私たちキリスト者も、たんに「待つ」だけではなく「待ち望む」ことによって、この現実の世界の中で生きている一人一々ではないでしょうか。現実の世界がどれほど神様のみこころとはかけ離れた状況が続いているとしても、その中で人と人、国と国とが互いに争い合い、また自国第1主義を掲げて自己中心的な利益にのみ目を奪われるような人々が力を振るう状況が圧倒的に世界を支配していても、しかし、その世界の状況もかならず移り変わることを信じ「待ち望む」、それがわたしたちキリスト者の信仰姿勢なのです。
 そして私たちがこの世界の中で、本当に人と人、国と国とが互いに愛をもって和解し合える明日がくることを希望として忍耐し続けるならば、私たち自身がキリストのやって来られるその未来の世界を御言葉によって整え、主が来られるに相応しい世界へと変えて行く力をも与えられるのではないでしょうか。そのような希望をもって御言葉に従っていく者には、忍耐の時も喜びに移り変わる時なのです。
(2018年11月11日週報より)