2018年10月14日

無くてはならないものとして 
神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。 (コリントの信徒への手紙 一 12章24~25節)  

 ずいぶん昔に、マルコ・ポーロの「東方見聞録」をもとにしたドラマを見たことがあります。そのドラマの中で、モンゴルのフビライ皇帝に仕えたマルコ・ポーロが、皇太子とそのお供の兵士と一緒に馬で遠乗りに出かける場面がありました。ところが、その途中、皇太子がてんかんの発作を起こし馬上から転げ落ち、お供の兵士がそれを見て恐れ驚き、さらにこのことが皇帝の耳にも達したのです。すると皇帝は、そのお供をしていた兵士たちをただちに処刑するよう命じました、自分の息子がてんかんの発作を起こしたことが知れ渡り皇帝の権威が揺らぐことになるのを恐れ、目撃者の兵士の口を封じようとしたのです。その時、マルコ・ポーロは皇帝に向かってこう言いました。「かつてマケドニア帝国を築いたあの偉大なアレクザンダーも、てんかんの病を持っていたのです。ですから皇太子の病を恥じたり隠したりする必要はありません」と。その言葉を聞いて、皇帝は兵士たちの処刑を思いとどまったのです。
 このマルコ・ポーロの言葉は、てんかんの発作も「偉大な王のしるし」であり、指導者となるべき人間にとって欠陥や引け目とはならないことを皇帝に示したものでした。このような言葉一つで、人間の価値観が変わることがあります。使徒パウロは「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」とコリントの信徒への手紙で語っています。それはパウロ自身が肉体的な弱さを持っていたからこそ語ることの出来た言葉でありました。パウロも初めはこのような肉体的弱さに悩み、それを取り去ってくれるように神様に祈り続けた人だったのです。しかし、その時に神様の答えた言葉は次のようなものだったのです。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。このような言葉を与えられた時、パウロは今までの価値観を180度変えられたのだと言います。
 私たち人間の価値は、何かが出来るとか出来ないとか、人よりも優れた才能をもっているとか、人よりも劣っているとかいう、他者と比較することで決められるものでは決してありません。むしろ、誰にとって自分が必要とされているのかが大切なことなのではないでしょうか?肉体的な弱さや精神的な欠陥が人間の価値を損ねるのではなく、逆にその弱さや欠陥を通して神様の力がこの世界に介入してくる、そのような役割を果たす弱さ欠陥が神様に必要とされているのだ、と聖書は私たちに示しているのです。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われるものにとっては神の力です」とも書かれている通り、私たちの目には劣っているもの不必要と見えるもの、あの最も呪わしい十字架という処刑道具すらも、神の御子イエス様がそこにかかって私たちのすべての罪を贖って下さり死んでくださった、その救いのしるしとして信じる時、何よりも慕わしく何よりも栄光に輝く、私たちには無くてはならぬものに見えるのです。その十字架の主の体の中の一部である私たち一人一々も、互いの弱さによって仕えあい配慮しあう各部分であり、誰もが神様にとって無くてはならぬ者として結ばれていくのです。
(2018年10月14日週報より