2018年9月30日

無限の赦しのもとで  
「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。・・・」    (マタイによる福音書18章21~22節 )

 今年は相次ぐ台風の到来で、大雨が降り各地で被害が出ています。また、強い風のために通行人の傘がおちょこになったり、果ては骨が折れたりして壊れるケースも珍しくありません。そのように傘を台無しにしてしまった人が数多く出たのではないでしょうか?傘のことと言えば、数年前の新聞記事に次のようなお話が載っていました。北陸のある女子高生が、突然の雨でずぶぬれになった高齢者の姿を見て、駅に200本の置き傘をボランティアで置くことを提案し、実行しました。それは、その傘を借りていった人が、後で駅に返しにくるという前提で始めたことでしたが、そのことを駅でも明記した上で貸出をしたところ、1ヵ月後その傘の9割は戻ってこなかったそうです
 それでも高校生たちは人の善意を信じて、10年間も傘を補充しつつ活動しましたが、一向に傘を戻してくれる人が増えないまま、限界となってその傘の貸し出しのボランティアは取りやめることになったのです。その時の高校生の言葉にこうありました。「傘のことだけで言うなら、人の性善説よりも性悪説の方があてはまる気がします」と。このような言葉を若い人に言わせてしまうほど、今の世の中は自分さえ良ければ、という自己中心な大人が多いのだ、という悲しい現実を思い知らされる記事でした。
 しかしこの高校生の言葉に「傘のことだけで言うなら」という前置きがある、その一言に救いを感じるのも事実です。確かに傘を借りていって返さない人がたくさんいる、その現実に失望しつつ、それを「傘のことだけ」と限って、その他のことについては「まだ人は信じられる」という希望をすててはいない、そういう若い人の純真さを感じたからです。 
 イエス様の弟子のペトロが「人を赦すのは何回まですれば良いか」とイエス様に尋ねた時「七の七十倍」とイエス様は答えられました。それは何回という回数の問題ではなく、赦しには限界がないという教えでした。しかし、それは人間の限界を超えた無茶な教えであることは明らかです。人間にとって人の罪を赦すことは、限度があり、その限度を超えれば「堪忍袋の緒が切れる」つまり赦さない、今まで我慢してきた分、徹底的に相手を裁く以外にない。その最終的な裁きが「何回まで人を赦すか」という問いの前提となり、根本的には赦しも裁きを目標にした限界あるものでしかない、それが私たち人間の限界でもあるのです。しかし、イエス様はその人間の限界ある赦しを、無限の赦しへと延長されました。それは赦しは神様の人間に対する無限の愛によってこそ実現するものであって、人が人を完全に赦すことなど出来ない、相手の罪の回数を指折数えている段階で、すでに裁いていることを知っておられたからです。主イエスの十字架は、その人間の赦しの限界をはるかに超えた、神様の人間に対する無限の赦しの証明として果たされた贖罪の業です。主の無限の赦しが、この世界の人と人とが裁き合う現実をも限界づけるのです。
(2018年9月30日週報より