2018年9月23日

いつでも死ねる人生
 わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。
                   (コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章10節)

 先週、有名な女優さんが亡くなられ、そのユニークな生き方、考え方に多くの人たちが感銘を受け、テレビでは毎日、生前その女優さんが語った言葉や人生観について報道されています。その中で、不登校の子どもたちの前で講演した時の様子が放映され、その女優さんは次のような言葉を語っていました。「自殺をしようとする前に、もっと世の中を見て欲しい。死ぬなんてことは、人間いつかはがんや脳卒中で死ねるから大丈夫。世の中に必要とされていない人間はいない。私も劇団時代は必要とされない人間だった。でも、自分が必要とされる時が来るまでフラフラ生きて行って良いのだと思う」と。このような言葉が語れるまでには、色々な人生の荒波があり不遇な時代もあったのだと思います。しかし、人間いつかは死ねるのだから、それまでは今生きている時間を楽しんで生きよう、というその積極的な人生観も、今まで味わってきた多くの苦しみや悩みもひっくるめて自分の人生だと受け止められる肯定的な姿勢から生まれて来たものだと思わされます。
 「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」と聖書は語っていますが、私たちの信仰において「今、生きている時間」とは同時に「イエスの死を体にまとってい」る時間だと言えます。そして「いつかは死ねる」人生も、イエス様の死を体にまとう私たちにとって「いつでも死ねる」人生とされているのではないでしょうか?神の御子であるイエス様が、人間となり人間と同じ肉体をもって生き、私たちが味わう人生の喜びも悲しみも苦しみ悩みもすべて味わい尽くされ十字架で死んでくださった。そのイエス様の死は私たちの「いつかは死ぬ」その肉体的な命の終わりと何ら変わらない、滅びの運命によって死なれた死であります。ただ、私たちの死と決定的違うことは、そのイエス様の死が私たちすべての人間が罪によって滅ぶべき運命を、神の御子自らが身代わって負って下さった贖いの死であったということなのです。
 そのようにイエス様の十字架の死が、私たち罪に滅ぶべき人間に対する決定的な赦しと救いのしるしとして与えられたのであり、その死を私たちは何よりも感謝すべきものとして「体にまと」うのです。その神の御子が私たちのために命を献げてくださった、それほどに私たちが愛され、生きることを神様から求められ必要とされていることを知るならば、私たちの内、必要とされない人生を生きている人など誰一人いないことも明らかなのではないでしょうか。「イエスの命がこの体に現れるため」に私たちはいつでも「イエスの死を体にまとっている」、すなわちイエス様への信仰において私たちは「いつでも死ねる」人生のその一瞬一瞬をかけがえのない時として生きて行けるのです。
 そのような信仰の人生は、苦しみや悩みの時すら私たちに与えられた、自分にしか生きられない時間であることを教え、すべてを肯定していくことの出来る者へと私たちを育て上げてくれる最良の道なのであります。それゆえ「いつでも死ねる」人生を「いつも喜びをもって生き抜く」喜びをもって歩み続けましょう。
(2018年9月23日週報より)