2018年8月26日

あきらめずに祈る
 イエスは、気を落さずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。(ルカによる福音書18章1節)

 イエス様はあきらめずに祈り続けることを私たちに勧めています。しかし、私たちは、祈っても祈っても、その祈りが叶えられない時、祈ることをあきらめてしまうことの方が多いというのも現実であります。ただ、そのようなあきらめが生じる時、私たちは祈りを「最終手段」のように考えているのではないかと思います。つまりある問題に関してまず自分の力で何とかしようと努力して、でも問題が解決されない場合に「じゃあ、お祈りしてみよう」という風に思っている。そういう自分の努力が先になっていて、神様の方は自分ではどうしようもなくなった時にお出ましいただこう、そのように自分が神様の前に立つような思いでいることが多いのではないでしょうか?そして、それでも自分の願いが叶えられないのは、神様に聞かれないからなのだ、とすぐにあきらめてしまう。そのように、私たちは思いやすいのです。
 以前、「やえん」という乗り物に乗ったことがありました。野の猿と書いて「やえん」と読むのですが、それは昔、橋のかかっていない川の上に綱を張り渡して、その綱に人が乗る籠をぶら下げ、それに乗って人が川を渡った人力ロープウエイのようなものです。今は、観光用にその「やえん」が一般の人に無料で開放されているのです。その「やえん」に乗ると、籠をぶら下げている綱とは別に「やえん」の中を貫くように1本のロープが通っていて、そのロープが向こう岸までつながっています。そのロープを手で手繰り寄せると、綱にぶら下がっている籠が滑車によって動き出すのです。私がそのロープを手で引っ張ると籠が広い川の上を向こう岸まで移動していくのですが、意外に力がいる作業で、その川を向こう岸まで渡るだけでも汗が噴き出すような有様でした。そして、向こう岸に着いたら、今度はまた元のところまで「やえん」を戻さなければならない。その往復をした後には腕がパンパンになっていました。しかし、乗っている最中はロープを引っ張るのに夢中で、自分の力で向こう岸を手繰り寄せているような感覚でしたが、考えてみると、実際は向こう岸にしっかりと結びつけてあるロープが私を引き寄せてくれたのです。
 私たちが神様に祈り求めるという行為も、私たちが一所懸命に祈り求める前に、神様の方が私たちを信仰のロープでしっかり神の国という向こう岸まで結びつけ引き寄せてくださっているから出来ることなのです。祈り求めるという行為は決して私たちの努力の後の「最終手段」なのではなく、初めから終わりまで、私たちをみもとへと引き寄せてくださる神様の愛のロープにまず手をかけていく、最初のなすべき行為なのだと言えます。
 「やえん」は、一度そのロープに手をかけ動かし始めたら、向こう岸に着くまでその手を休めることは出来ません。川の途中で宙ぶらりんのままであってはならないのです。かならず向こう岸に到達できるからこそ、あきらめずに手を動かし続けて行く、それと同様に私たちも、神の国へと到達できる確信をもって、主イエスの愛がこの世界を真実の平和へと導かれるその希望をあきらめず祈り続けましょう。
(2018年8月26日週報より)