2018年8月19日 

主と共に「へりくだる」道  
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。 (フィリピの信徒への手紙2章3~4節 ) 

 ある国で、2000年前の地層から鉛筆が発見され、その国の人々は「私たちの国では、2000年も前に鉛筆を使って手紙を書いていたのだ」と大喜びしました。しかし、その隣の国では、3000年前の地層からボールペンが掘り出され「わが国では3000年前にボールペンを使用して連絡を取り合うことが出来たのだ」と誇らしげに発表したのです。その頃、日本では5000年前の地層を掘り返しても何も出てこなかったので、こう言いました。「日本人は5000年前には鉛筆もボールペンも使う必要がなかった。なぜならすでにスマホを使ってメールすることが出来たからだ」。
 何も出てこないことが優れた文明があったことの証拠になる。そういう都合の良い解釈をしてでも、自分たちの方が他の国々よりも進歩した民族なのだと主張しあう、そんな見栄を張りあうのが人間の歴史なのではないでしょうか?戦前、日本は皇紀2600年という歴史を持つ国で、日本人は他の民族よりも優れた民族であることを誇ったという歴史があります。そういう自国を過大に評価し誇ることで、多民族を蔑視し差別するような誤った歴史観、自国中心の価値観に陥り、日本は無謀な戦争への道を突き進んでしまったのです。
 「何事も利己心や虚栄心からするのではなく」と聖書は語ります。人は自分が他の人より「優れている」ことを自分の価値とし、「劣る」ことを恥じとし隠そうとします。しかし、そのように自分を大きく見せたり、他人に自分を誇り、自分が他より重んじられることを自己評価の基準とすることで、結局は自分自身を偽りで固め身動きも出来ない窮地に追いつめてしまう、それが罪の奴隷として生きざるを得なくされた人間の姿であると言えます。
 「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」なさいとも聖書は教えています。人は自分が他者よりも劣っているとか、下に見られるというようなことに屈辱感を覚え、それに耐えられない思いを抱きます。しかし、神の子イエス様だけは、「自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた」とフィリピの信徒の手紙は証言しているのです。最も神と等しい方が、私たち人間と同じ弱さと不完全さを身に負い、さらに「十字架の死に至るまで」人間であることを辞められなかった。それは神の御子が誰よりも下に立ち、誰からも見下げられる存在として私たちの世界にやって来られた、そのことを意味する出来事です。そのようなイエス様を「見下げる」時、私たちはもはや自分より上がいるとか、自分より優れた存在があるということに、どれほど拘り続ける必要があるのでしょうか?また自分が劣っていること、弱いことにいつまで劣等感を抱き続ける必要があるというのでしょうか?むしろ、自分よりも優れた存在を認めるほどに、自分の拘り劣等感から解放され、誰も「下に見ない」くらいに自分が下にいることをむしろ喜ぶことが出来る。それが主と共に「へりくだる」愛に生きるということではないでしょうか。
(2018年8月19日週報より)